地中海を望むプロムナード・デ・ザングレ。 「イギリス人の散歩道」という洒落た名前だ。

フランスのニースを訪れたのは二月だった。ニース・カーニバルの後夜祭やサレヤ広場の市場、地中海を望むプロムナード・デ・ザングレ海岸の景色を満喫し、滞在はこの上なく素晴らしかった。……が、トラブルは宿で起こった。

お昼頃、外出先から一度ホテルに荷物を置きに戻ってきたところ、オヤと気づいた。ロビーが何やら薄暗く、しかもサイレンが聞こえる。何事? ロビーに入ると、サイレンが鳴り響く中、フロントの女性が電話口で叫んでいる。フランス語だからよく分からないが、「突然こんな事態になった」と取り乱しながら誰かに訴えているようだ。電話を切った女性に「どうしたんですか?」と尋ねたが、女性は困った表情で「分からないわ、突然電気が落ちたの」と言う。停電か、そりゃ大変、と思いながら、どこかひと事の私、部屋の鍵を受け取ってエレベーターに乗った。

昼間に撮った停電中のホテル。まるで廃墟のよう。

昼間に撮った停電中のホテル。まるで廃墟のよう。

……いつまで経っても動かないではないか! そうだ、停電だった。慌ててエレベーターを出て、一人で顔を赤らめ、部屋のある四階まで階段を昇った。部屋に荷物を置いてまた外出する。その時私は、停電はすぐ直るだろうと気楽に考えていた。これぞ日本人の恐るべき“インフラ整備慣れ”である。

夜七時、ホテルに戻った私は絶句した。目の前にあるのは、まるで幽霊ホテルだ。中は真っ暗、そして入り口にはロウソクが立っている。にわかに信じがたい光景ではあるが、恐る恐る扉を開けて手探りでフロントに近づくと、人影が動いたので「あの、鍵を……」と話し掛けた。するとその人影、「僕は客だよ。マネージャーはこっち」。よく目を凝らすと、無数の客らしき人影が揺らいでいる。と、突然一本のロウソクがフラフラと宙に浮き、炎に照らされた不気味なヒゲ面がぬぅ~と出てきたので、思わずヒャッと叫ぶと、顔はフフフと笑って「案内しますよ」と言った。懐中電灯を持ったマネージャーが階段を先に昇り、部屋まで案内してくれるそうだ。暗がりの中をなんとか部屋までたどり着くと、彼は「明かりが必要な時は上から私を呼んでくれ」と言って階下に戻って行った。そして部屋に入った私、ようやく気付いたのだ。

部屋の中ももちろん真っ暗である。当たり前だ。えっ、じゃあシャワーも浴びられないしTVももちろん見られない。エアコンも切れているから暖房もなしときたもんだ。心細いにもほどがある。なるほど、お客もロビーに溜まるはずだ。

しばらく暗闇でごそごそ、荷物の整理をしてみたが、何にも見えないので諦めた。喉が渇いたな、廊下の自動販売機に行こうと思い……ああ! 自動販売機もダメだ! まさに八方ふさがり。一階で水を買えるかしらと思い、手探りで階段のあたりまで行くと、二つの人影発見。「ボンジュー」と声を掛けると、「ハロー」と中年女性の声。「真っ暗ですね」と言うと、「困るわよね!」とおば様方、かなりご機嫌斜めだ。

明かりが必要なため、三人で「アロ~、シルヴプレ~!」と叫んだ。すると下から「ウィ~!」と返事がして、懐中電灯の明りがチラチラ、階段を昇ってきた。来た来た、と思った瞬間。私は階段のすぐ側にいたらしく、足を踏み外してデーンと尻もちをつき、くるぶしを思いきり階段に打ちつけてしまった。イタタ、と日本語で唸る私に、おば様方、「大丈夫!?」と手探りで助け起こしてくれる。マネージャーも何かフランス語で叫びながら駆け上がってきた。そこへおば様二人、「早く直しなさいよ!」と不満爆発。大阪のオバちゃんもビックリのド迫力で「彼女は足を怪我したのよ」と言いたいことを言う欧米のおば様。イヤ全然大丈夫です、と遠慮する日本人の私。するとマネージャーのおじさん、突然膝まずいて「さあ」……って、エ、おんぶ!? ノンノン! と慌てる私に、おば様方「いいのよ、カモン」などと言い出す始末。ちょっと、おばちゃん達はマネージャーの何なのさ。

結局、懐中電灯を持っておば様二人が先に立ち、私はマネージャーに腕を借りて一階まで降りた。無事階段を降りた時、ちょうどホテルに到着した宿泊客、私たちを見つめる目が点だったのは言うまでもない。

その後、フロントで絆創膏をもらってくるぶしに貼り、部屋に戻ってベッドでウトウトしていると、いきなりウイーンと電気の通る音がした。ハッと目を覚ますと同時に、部屋の電気がパアッとついて、エアコンもゴオッと音を立てて唸りだした。やったあ!! もう今日はすべてを諦めていたので、嬉しさもひとしおだ。思わず廊下に飛び出すと、階下からもワアッと歓声と拍手が沸き起こっていた。ただ停電が解消されただけなのに、なんと平和なことか!

電気って、何て安心するものだろう。この時に電気が当たり前にあることのありがたみと、どれだけ依存して生活しているかを身に染みて実感した私。と同時に、ニースの風景と共に必ず思い出すあのホテルが、現在も幽霊ホテルにならず、無事運営していることを願わずにはいられない。

河野友見(こうの ゆみ)/プロフィール
広島市出身。ネタを求めて渡り鳥のようにあちこち飛び回る傾向がある。好物は中世・文学・ビール・アート・ユニオンジャック。ようやく日本の春らしさを感じる今日この頃。人によっては、冬と春の間には、一カ月あまりの「花粉期」という苦悩の季節がございます。ハァックショーン!! ズルズル……