第2回 目に見える過去

過去は見えない、と前回書いたが、それは間違いだった。見えることもある。例えばポルポト政権下(1976年−1978年)の強制収容所トゥール・スレン(S-21)がそうである。収容所跡がプノンペンにあり、そこに行けば何が起こったかまざまざとわかる。

ベトナム戦争の余波を受け、世界的に資本主義と共産主義が対立していたころである。ポルポトは農村こそが国の基盤だと都市を解体し、資本主義と文明の利器を排除した。貨幣制度を廃止し、学校は閉校され、 眼鏡をかけているだけで非国民だとされた。教師や学者、医者など知識層から殺され、国民は重労働や飢餓に苦しんだ。

拷問の現場となった学校の教室

音声ガイドをききながら、S-21をじっくり見た。暑い日で、多くの人が見学に来ていた。元小学校だった3階建ての建物が4棟あり、中庭は広々としている。校舎の廊下に鉄条網がなければ、そんな残酷なことが行われていたとはにわかに信じがたい。犠牲者の数は正確にはわからず、1万4000人から2万人といわれている。密告が横行し、一度収容されたら二度と出られない。排泄物は決められた缶に入れることになっており、少しでもこぼれるとなめてきれいにさせられた。無実の罪を自白させ、その罪で処刑した。死刑にするのが目的だったから、容赦なかった。行う方は、それが正しいのだと信じていた。

一緒に行ったカンボジア人のKは、中に入って言葉少なになった。Kはこの収容所ではないが、ポルポト政権時代に牢屋にいたことがある。Kが牢屋に入れられたのは非国民とされたからだ。放牧させていた牛が、自分が木から落ちて気を失っている間に稲を食べてしまった。「ぼくはまだ子どもだったし、不慮の事故から起こったことなのに、ものすごく殴られた」と見つかったときの様子を語る。思い出すだけで、今でも胸がつまると。国民の食べ物を粗末にしたという理由で、Kは牢屋に送られた。まだ11歳だった。

拷問に使われた壺と囚人の像

「本当に悲惨だった」とKはいう。何十人という人が部屋に押し込められ、夜はずらりと寝かされた。寝るとき足を鉄板に固定するのだが、そのための金具は大きさがまちまち。早くしないと殴られるため、みなで争うように箱から金具を取り出したところ、大きさがあわず痛い思いをしたこともしばしばだった。しかも夜は身動きができない状態で、一晩中自分の番号と名前を順番に言わなければならない。脱走防止のためだ。うっかり寝入ってしまって、言い遅れると下から槍で突かれた。

私はドイツでナチス時代の強制収容所をあちこち見に行き、ひどいことだと思った 。しかし、なんとなく遠いところのできごとだった。ところがS-21は違う。ポルポト政権下を生で体験したKが横にいる。ポルポト政権下で命を落とした人は100万人とも言われ、Kも家族や親戚を何人も亡くしている。カンボジアについた初日、Kの親戚と中華粥を食べたけれど、あの人たちもこの時代を体験したのだ。急に周りの風景が現実味を帯びて迫り、しばし呆然とした。

田口理穂(たぐちりほ)/プロフィール
1996年よりドイツ在住。ジャーナリスト、ドイツ州裁判所認定通訳。著書に「なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか」(学芸出版社)など。カンボジアは家族の結びつきが強く、学校にはサトウキビジュースやうす焼き煎餅屋が来ていて、一昔前の日本のようだった。古き良き時代が残っていて、居心地がよかった。