「セクシャル・ハラスメント」という概念は、70年代アメリカの、ラジカルなフェミニズム運動の過程で生まれ、日本では「セクハラ」として1989年の新語賞に選ばれるほど注目を浴びた。それに対して、フランスでこの言葉が広がったのは90年代と遅く、性に対するタブーが少ないラテン気質のせいか、いまだに定着していない。

90年代初頭、アメリカ人だが仕事でフランスによく滞在するベティに出会ったときのことをおぼえている。彼女は、女友だちのセクハラ訴訟に証人として出頭するためにアメリカに帰国する直前だった。日本では「それってセクハラだよねー」と言いながらも単なる悪口や軽口に終ることも、アメリカでは「罪」になるということを認識させられた。しかし、際立って印象的だったのは、同席していたフランス人女性たちには、彼女の言っていることがまったく理解できていないようだったことだ。

「プールに女友だちと行ったら、監視員が水着姿の彼女をジーッとみるの。すごく嫌な目付きでしつこかったから、私が証人になって、これから、裁判するんだ」

「きれいだと思ったんじゃないの? 」

「でも、すごく不愉快だったんだもの」

「そんなこと言っていても、誰にも見てもらえなくなったらどうするの?、がっかりするよ」

「私は女性としての尊厳を傷つけられる感じがした」

「じゃ、訴訟なんて面倒なことしないで、プールに突き落としちゃえば?」

会話は徹底的に平行線を辿った。

フランスの女性たちは日頃から「視線」を意識して生活しているだけに、見られないことには傷つくかもしれないが、見られることに対して怒ることはないのではないだろうか? 春になれば、胸元チラリどころか、かなり大胆に存在感を強調するのが普通。若い女の子だけではなくて、還暦過ぎても「あるものは見せる」意気込みだ。夏休みに遊びにきた日本人の友人は「ここって、露出度が……」と絶句していたが、そこまでして、「ジーッと見つめやがって、あのオヤジ訴えてやる」というのは、やはり自己矛盾というものだろう。

セクシャル・ハラスメントが軽罪として認められたのは1992年だ。それも、当時は職場で上司が部下に対して自分の権限を利用する対価型ハラスメントだけだった。「同僚に性的な嫌がらせを受けた場合は?」というジャーナリストの質問に、当時の女権利大臣ヴェロニック・ネイルスは「そういうのは自分で張り倒せばいいんじゃない?」と答えている。

要は、その程度の重みしかもたない罪なのである。セクシャル・ハラスメントがメディアを騒がせた唯一の事件は、2001年、パリのエリート大学博士課程の女子学生が教授に対して起こした訴訟だ。しばらくの間、新聞の論壇を騒がせたものの、この訴訟は不起訴に終わり、その後セクシャル・ハラスメントという言葉は、ほとんど聞かないようになってしまった。

昇進や正規雇用とひきかえに性的関係を強要される「対価型セクシャルハラスメント」ですらこうなのであるから、「環境型セクシャルハラスメント」は言わずもがなである。外国人である私には、アメリカから輸入されたこの概念は、フランスでは「借り物」の域を出ず、どちらかというと女性の側から総スカンを食ったように思える。

男女間はいろいろなすれ違い、思い違い、感受性の違いから起きる軋轢(あつれき)も起きる不思議なスペースだ。そこに生じるさまざまな曖昧さ、無意識の共犯関係、どちらともとれるような言動を法でがんじがらめに規定してしまうのはどうだろう?「そんな味もそっけもない、干からびた人間関係なんて嫌」、そういう思いのほうが「女性の尊厳」云々よりも強いのかもしれない。

また、これまで、法律そのものが女性の自由を奪ってきたことも忘れてはいけない。19世紀初頭のナポレオン法典では、独身女性は父親の、既婚女性は夫の監視下にあった。1881年まで、労働する女性ですら自分の銀行口座を開き自分の財産を管理する権利はなかったのだから、「女性­=子ども」だったのだ。それだけに、彼女たちの法に対する懐疑心は強い。70歳近くして、バリバリのフェミニスト、エリザベト・バダンテールは、「なにもかも法や警察に頼るようでは、私たち女性が自分で自分を守ることすらできない無能な人間だということを認めることになり、女性が子ども扱いされていた時代の男女関係に戻ってしまうのではないだろうか」と言っている。

自分のことは自分で守る、スケベな男は自分で張り倒す。私はそんなシンプルさが好きだが、そんなに強くない女性はどうすればいいのだろう? 「強い女性」のイメージに押しつぶされている、まだ、人生経験の少ない女性もいるのでは?と思わずにいれない。

夏樹(なつき)/プロフィール
パリ在住フリーライター。日本のことを考えて落ち着かない毎日ですが、いつも通る道で、今日は、桜が咲いているのを発見して、ちょっと嬉しくなりました。そういえば、もうそろそろ夏時間に変更、長かった冬の終わりです。