第7回 「命いただきます」を意識する暮らし

連載:『サモアの想いで』
文・写真:椰子ノ木やほい(ミシガン州・アメリカ合衆国)

サモアで暮らしていたころには珍しくもなかった、ご馳走を調理する過程のひとコマだ。海で釣ったばかりの魚を捌いたり、辺りを走り回っている鶏や豚を捕まえ調理する様子を見ることは日常だった。

生きていた動物が、目の前でご馳走になっていくという姿を初めて目の当たりにしたときには、正直いってショックで絶句した。一口にクッキングと言っても、ところ変わればその内容はちがうものだと驚いた。

首都アピアには、地元の漁師が獲って来たばかりの魚を売るフィッシュマーケットがある。そこではいろんな魚、タコ、ロブスター、カニ、貝などが無造作に置かれていた。大きなマグロはさすがに輪切りになってはいるものの、片腕ほどもあるカツオや鮫などはそのまま並べられていて、魚を買うということは、それを食べるために、自分で捌くことを意味した。

常夏の気候の中、台所を預かる主婦として包丁を片手に汗だくで魚と格闘したものだ。魚の匂いをどう嗅ぎつけてくるのか、どこからともなくハエと蟻が集ってくるのには閉口したが、自然の威力とは大したものだ。今思えば、あれはけっこうな重労働だった。サモアで暮らすようになり、改めて肉屋や魚屋に感謝したほどだ。

私が幼きころ、祖母から聞いた。
「ご飯の前に『いただきます』と手を合わせるのは、お食事をいただきますということだけではなく、『命をいただきます』ということだよ」と。

パック詰めの肉片や魚の切り身ををスーパーで買うという経験しか持ち合わせていなかったころには、ちっともピンと来なかったその言葉が、自身の手によって、「生きとし生けるもの」を捌き、調理するうちに心に染みるようになった。

今私はまた、パック済みの便利な食材に囲まれて暮らしている。パックに収まった肉片を眺めながら、ふとサモアで捌かれていった動物を思いだすことがある。忘れてはいけない。誰もがいろんな命を頂きながら、自身の糧にしていることを……。

≪椰子ノ木やほい/プロフィール≫
フリーランスライター。1997年、受験のない世界での、のんびりゆったり子育てと、シンプル&スローライフを求めて、家族(夫・子ども4人)で南太平洋の小国サモアに移住。4年間、南国生活を楽しむ。思春期に向かう子どもたちにとっての、より適切な環境を模索する中で、2001年より、アメリカ合衆国、ミシガン州に在住。