第5回 恐るべきフィンランド語を操るようになったわけ

70年代から共働き率が70%、現在では80%を超えるフィンランド。そこに日本生まれの長男とフィンランド人の夫と移住し5年目だった当時の私を振り返ってみよう。

母と子のハンドペインティングの日

日本では結婚後間もなく退職し、長男が7ヶ月になってから移住。フィンランド在住ライターとしての活動を始め、2歳になった長男を保育園に入れてからフィンランド語教室に通い出し、保育園の保母さん達を相手に拙いフィンランド語を話すものの、当時の私は夫とはまだ英語で話し続けていた。


今でこそ在住国の言葉だからと観念してしまったが、フィンランド語は、英語のようにインド・ヨーロッパ語系でもなく、世界でも540万人しか話さないマイナーな言葉だ。そこにきて、「こんにちは」が「パイヴァアア」、「すてき!」が「キヴァー!」など、普通の感覚ではもっと軽やかな音で言いたそうな言葉に限って破擦音で、スーパーマーケットが「スッペルマルケット」などとRの音が思いっきり巻き舌で、「ノニッ、キヴァッ、モイ!(良かった、じゃあ、またね!)」と半ば鳴き声的な別れの挨拶を交わすフィンランド語を笑わずに日常使いするというのは、相当なチャレンジのように思われたのだ。

そんないつまでたっても土地に慣れない母を差しおいて、長男は間もなく地元の小学生になろうとしており、フィンランド生まれの次男は、ヘルシンキの産院で生まれてすぐに助産婦にフィンランド語であやされてもすぐに泣き止んだほど、ローカライズされていた。

そこに輪をかけ、次男の誕生間も無く夫は、「ケータイがこれ以上便利になっても人類は幸せにならない」と、長年勤めていたノキアを退社し、転職をし、そこも辞めて起業してしまったので、自宅はホームオフィスになってしまった。次男の誕生を機に、しばし語学学校も執筆活動もお休みして、新一年生になる長男と新生児のママ業に徹する心積もりでいた私は、すっかり調子が狂ってしまった。

イクメンというよりも「育児奉行」タイプの夫は、長男の身の回りのことはもちろんのこと、小学校の書類の手続きから、入学後も宿題からイベントの細部に至るまで手早く面倒を見てしまう。学校の先生からのお知らせが来たら、辞書を引き引きプリントを読んで、母親である私が全部準備してあげるのだと、日本の常識を基準に張り切っていた私は、大きく空回りしてしまった。

夫は、家にいるのだからと家事までもしてくれるようになったのだが、それはすなわち、毎日食卓に並ぶのが洋食ということであり、どうしてもご飯が食べたければ、お米のとぎかたを「ややこしい」「どうしても洗わなきゃだめなの?」と習得しようとしない夫を台所から退去させる手間が生じるようになった。洗濯物も、私とは違うルーティーンで洗われ、これまた違ったロジックで干されると、かえってイライラが募る。掃除に至っては、夫の掃除方法の方が徹底的にきれいにはなるのだが、「女の掃除とは違って男の掃除の方がすみずみまで徹底している」と余計な自画自賛が入るので、なかなか素直に「ありがとう」とは言えない。

そんな、自宅でカジメン・イクメンに圧倒される日々の中、ケルホがある月から木曜日に私は生き生きとし――長男が乳児だった時には行く宛もなく朝遅くまで家でダラダラしていたのがまるでウソのように――早起きして着替えてお化粧までして、次男が起きるのを心待ちにしていた。

私のお化粧や服が新しかったり、似合っているとケルホの仲間達は褒めてくれた。フィンランド語も保育園の先生方とは「息子は今日よく食べましたか?」だの「お昼寝はしましたか」だのを繰り返すだけだったのに、ケルホの職員には聞きたいことがたくさんあり、外国人の仲間達とは分かち合いたいことがたくさんあった。

その高いモチベーションが功を奏したのか、私のフィンランド語はケルホに通っている間にメキメキ上達した。在住8年のコソボ人のハズビエが、「サチコの発音にはベトナム人のような特有の訛りがなくて聞きやすい」と、在住30年のベトナム人職員のロアンがいる目の前で、褒めてくれたぐらいである。そこでそろそろ十分に意志疎通ができるようになったところで私は改めてコソボ人のケルホ仲間に聞いてみた。

「あなたはどうしてフィンランドに来たの?」

ハズビエ、ミモザ、シポニア――彼女たちの口から出てきた答えは意外なものであった。

靴家さちこ/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、結婚を機に2004年よりフィンランドへ移住。「marimekko(R) HAPPY 60th ANNIVERSARY!」、「Love!北欧」、「オルタナ」などの雑誌・ムックの他、「PUNTA」、「WEBRONZA」などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。フィンランド直送のギフト店「ラヒヤパヤ(Lahjapaja)」を運営。