第6回 写真花嫁

世界中が大戦前の不穏な空気に包まれていた1930年代末。山梨県に暮らしていた奥山元女(モトメ)さんは、両親から一枚の写真を見せられ突然こう言われた。「この人と結婚しなさい」遠くペルーに暮らしているというその男性は、元女さんのいとこだった。先妻を亡くし、再婚相手を探すために2人の息子を連れ一時日本に帰国するという。いとことはいえ一度も会ったことはなく、その上自分の父親であってもおかしくない年齢だった。しかし、親のいいつけには逆らえない。この話から1週間後、不安を募らせる間もなく祝言が行われた。夫・嘉重さん43歳、新婦・元女さんは23歳だった。

1899年に始まったペルーへの移民は、主に短期間の出稼ぎが目的であったため女性の数は圧倒的に少なかった。ペルー新報社の「在ペルー邦人75年の歩み」によると、第一回から九回までの渡航移民の内訳は男性が6065人、女性が230人だったという。やがて苛酷な耕地労働に耐え兼ねた人々が首都リマに向け出奔、その後勤労と持ち前の堅実さで商いを成功させていった話はこれまでにも記した。日本から家族や親せきを呼び寄せた彼らは、ペルーに腰を据え確固たる日系社会を築いていった。しかし適齢期の女性を補うのは容易なことではなく、その結果、写真を介して結婚する“お見合い”が積極的に行われるようになる。こうしてたった1枚の写真を頼りに海を渡って来た女性たちは、「写真花嫁」と呼ばれた。中には相手が写真とは似ても似つかぬ人物だったり、互いに「騙された」と嘆くケースも少なからずあったという。とはいえここは地球の裏側、たやすく帰国できるわけもない。言葉も通じぬ異国で、ただただ不運と受け入れざるを得なかった花嫁たちの悲哀は想像に余りある。

しかし、元女さんは運よく“当たりくじ”を引いたようだ。夫の嘉重さんは大変誠実な人柄で、日系社会でも有数の事業家だった。見知らぬ土地に嫁ぐ娘の身を案じた両親が、「どうかこの子の名義で畑の一枚でも買ってやってくれないか」と願うと、「畑一枚などとおっしゃらず。私の財産はすべて彼女のものですから」と答えてくれたそうだ。

しばらく日本で暮らした後、2人はペルーへ戻ることになった。渡航ビザが下りなかった息子2人を親戚に預け、生後5ヵ月の長女を抱えてペルーのカヤオ港に到着したのが1939年8月15日。翌月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した。

1940年5月に起きたリマの排日暴動では、嘉重さんが営んでいた自転車の販売店と組み立て工場も暴徒に襲われた。しかし、先見の明があった嘉重さんは「戦争が始まったら、何もかもが値上がりする」とタイヤを大量に輸入、それが飛ぶように売れるなど、さまざまな商売にチャレンジしながら家族の暮らしを守り続けた。1941年12月に日本が参戦、翌年ペルーが対日宣戦布告をすると同時に、日本人有力者の北米強制収容が始まった。嘉重さんも“逮捕”され、港へと連行されたが、知人のペルー人弁護士が「何かあった時のために」と用意してくれていた手紙のお蔭で、間一髪出港直前に船から降ろされたそうだ。すでに複数の子供を抱えていた元女さんにとって、ペルーで最も危機的な瞬間であった。

例に洩れず、移民としての苦労を重ねてきた奥山夫妻。しかし、商才に長けていた嘉重さんはその後自転車の輸入販売を再開するなど事業を広げ、元女さんも夫を支え続けた。「優しくて賢くて、それは素晴らしい人でしたよ。ただ大の病院嫌いでね、子供が熱を出しても病院に付き添ってくれなかったんです。私は言葉ができなかったからドクトルに説明ができず、本当に苦労してねぇ。困ったことと言えばそれだけですね」懐かしそうに昔を振り返る元女さんは、24年前に亡くなったご主人の位牌に毎日線香をあげている。

大戦前日本に残してきた息子を加え、9人の子供を育て上げた元女さん。今では孫とひ孫を合わせおよそ60人というオクヤマ一族を築き上げた。「súper obaachan(スーパーオバアチャン)」の名で当地の新聞にもたびたび紹介される彼女は、今年11月にめでたく白寿を迎えた。北米に暮らす孫も参加してくれたという誕生パーティーの招待客は350人。6時間にも及んだその祝宴で、元女さんは友達と一緒に大好きなカラオケに興じたと言う。

「100歳のお誕生日はどうするんですか?」と伺うと、「今年これだけやったから、もう静かにしますよ」と笑いながら答えてくれた。しかし、ペルー日系人社会を見つめ続けてきたこのおばあちゃんの紀寿を、家族や友人たちが静観しているわけがない。「私はペルーに来られて本当に幸せですよ」という99歳の元女さん。彼女には、人の強さや逞しさ、家族との絆の大切さを教えてもらった。

原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール
ペルー・リマ在住フリーランスライター:99歳にして、まったくボケていない元女さん。その秘訣を聞くと、「物を書くこと、たくさんの友達を持つこと」だと教えてくれた。また、歌が上手で今も日秘会館のカラオケ教室に通っている。「糖尿病気味でたくさん食べられない」と言うものの、カレーライスやロモ・サルタード(牛肉と野菜のペルー風炒め物)が好物というから、まだまだお元気。理想的な老いの姿、まさに「スーパーオバアチャン」である。
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