第7回 ブラジル人現る

その日、私はいつもより少し遅めにケルホ(児童館)に着いた。うっすら春が近づき、雪に陽光が乱反射する2月のことだった。私が次男と通っていたケルホは新しい客人を迎えた。彼女の名前はアンドレーサ。ブラジル人の彼女は同じケラヴァに住む、夫の親友の奥様である。在住2年目でフィンランド語もたどたどしく、英語も話さない彼女と私には共通の言語が無かったが、同じぐらいの時期に私は次男を、彼女が一人目の子どもを産んだことから、家族での交流は多かった。アンドレーサと話す時には、ポルトガル語が流暢な彼女の夫が通訳に入る。ある晩、彼らの家のパーティーに招かれた時、私はケルホの案内が書かれた小さな紙を持参した。「サチコも通ってるの?」と聞かれて「この冬から通い始めたんだけど、フィンランド語の練習にいいわよ。ルーカスと一緒にどう?」と勧めておいた。南国の人らしくなく、物静かで人見知りが激しいアンドレーサはもっといろいろ聞きたそうにしていたが、彼女の夫がコーヒーを入れるのに忙しくなり話が中断した。

そのアンドレーサがケルホに来た。私の姿を認めてふふふと笑って手を振った彼女の隣にはミモザがいて、2人は身振り手振り総動員で出産の話で盛り上がっている。……なんだ、フィンランド語話せるんじゃない。なるほど確かにそれぞれの夫の手前、下手くそなフィンランド語で話すのはちょっと気が引ける。さらにきっと、8歳近く年が離れている私よりは、年が近いミモザとの方が打ち解け易かったのかもしれない。私は軽く傷つきながらも、今まで一人でルーカスの世話と家事に明け暮れていた彼女が居場所を見つけてくれた様子に喜んだ。やがて隣の部屋から出てきたメリヤに「サチコのお友達ってあなた?」と話しかけられて、質問攻めにされると、所々意思の疎通が難しい箇所で私は応援に呼ばれた。

ケルホの午前の部が終了する頃、例によってコソボ人女子が一秒でも早く出ようと怒涛のように玄関になだれ込み、私もアンドレーサも後から子ども達にオーバーオールを着せ始めた。彼女の国では、こんなにたくさん子どもに防寒着を着せることは無いだろう。長男が7か月の時、フィンランドで初めて外套を着せた時の私の手つきもおぼつかなかったが、彼女ときたらオーバーオールを着せる前にブーツを履かせてしまっている。先に優樹に着せ終わった私は、暑がって暴れるルーカスをあやしたり、手袋をつけてやったりして手伝ってあげた。コソボ人は、ハズビエは4人目、シポニアは2人目、ミモザは3人目と初めての子ではないので手際が良い。加えてアンドレーサはお国柄かマイペースでおしゃべりが始まると手も止まるのでさらに遅い。12時で終了のケルホを彼女と一緒に出た時には、もう12時半を過ぎていた。

アンドレーサは毎日通って来るようになった。すると、もう馴染みの彼女にもコソボ人女子からケルホの後のお誘いが入るようになった。コソボ人達はいつもリンデックスかセッパラというファストファッションの店に繰り出す。私も誘われれば大抵一緒に出掛けた。アンドレーサは「どうする?」という顔をしたので「行こうよ」と促した。ところが例によって……着替えが遅い。痺れを切らせたシポニアが「遅いわよ、早く早く!」と急き立て、部屋の掃除に取り掛かったベトナム人のアシスタントのロアンにまで「そもそもアンドレ―さはいつも来るのも遅いのよ。もっと早くに来たら?」と言われてしまった。しかし、ケルホの案内には「午前の部 9:00~12:00」と書いてある。それでいて、コソボ人が玄関に押し寄せ、ロアンが部屋の掃除を始めるのは11時半頃だったので、私も慣れるまでは変に思っていた。

「何もあんな言い方しなくたって……」と憤慨するアンドレーサに、「シポニアのことは、ちょっと口がキツイだけだから気にしないで」となだめ、ケルホの時間のことは後日職員達に問題提起してみた。「ケルホの案内には午前の部は12時までって書いてあるでしょ?でも実際は11時半で終わるじゃない。それならそう書くべきじゃない?」と。メリヤは「あら、本当、気が付かなかったわ」と目を丸くし、パウラは「うん、でも13時から始まる午後の部に備えてそれまでに私達全員がお昼を食べなきゃならないでしょう?」と早口で捲し立て、ロアンは「それにしてもアンドレーサは10時半とか11時とか、来るのが遅すぎるのよ。ルーカスだってやっと遊びが盛り上がって来たころに帰らなければならないじゃないの」と譲らなかった。私は、その日にはたまたまケルホを休んでいたアンドレーサに彼女たち3通りの見解を伝えた。

アンドレーサは腑に落ちない顔をしていたが、その一方で、11時半終了には何の不満もないコソボ人達には午前中だけで授業が終わって帰ってくる小学生の子ども達もいる。そしてうちにもやはり授業が12時半に終わるプリスクールの長男がいた。しかし、ルーカスが一人目の彼女にはこの時間感覚は分からない。それでもケラヴァに来たばかりの頃、長男と二人ぼっちで出かける当ても無かった朝のことを思い出すと、あの頃の私だったら朝ご飯をケルホで食べる勢いで通ってくるのではないかと思う。同じケルホ一つでもそのありがたみや受け取り方は人それぞれだなと思った。

アンドレーサは他にも気になる点を打ち明けてきた。「コソボ人の子ども達、ルーカスのことぶつのよ。ユウキのことも気をつけて見ていた方がいいわよ」。実際に彼女は、子ども達をロアンとメリヤに任せて、水曜日に地下の体育館で行われていたパウラの体操指導にも参加せず、ルーカスと一緒に子ども達と遊んでいた。一人目の子どもだとこんなにも一生懸命になれるだろうか。一人目を産んだ時から一人の時間が恋しく、ケルホだって自分が楽しくて優樹を無理矢理引っ張ってきているような私は、アンドレーサが眩しく見えた。

通い始めた早々このようなちょっとしたことはあったものの、引き続きミモザと、そしてハズビエとも楽しく交流の和を広げていったアンドレーサは、同じフィンランドに住む外国人、移民、そして母親として、新しい居場所に馴染んで行ったように見えた。少なくともあの二つの事件が起こるまでは――。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、結婚出産を機に2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』』などの雑誌・ムックの他、『PUNTA』、『ジャポジェンヌ』『WEBRONZA』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』など
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