第17回 ハズビエと語る

家に帰ると早速夫に、ケルホで起こったことを報告した。アンドレーサは夫の高校時代の親友の妻なので、夫の耳にも入れておく必要があると思ったからだ。夫は「ポリーシ(警察)か、そりゃすごい!」と声高らかに笑った。笑い事では無い。もしも私が同じ目に遭ったらどうしてくれるのだ。私だったら、不快な顔をしながらも、きっと無抵抗で鞄の中を見せただろう。でももし自分が“最初に”鞄の中を見せるようにと言われたとして、それを特に自分だけに対して向けられた悪意として受け取っただろうか。

夏休みに日本に帰省して帰ってくると、駆け足で迫ってくる秋。 豪快で色鮮やかなカエデの木の葉に、異国に住んでいることを良くも悪くも実感する

日本に居る限り闊達で「一言えば十返ってくる」などと形容される私だが、人からの悪意には割と無頓着で無防備だ。とりわけ海外で暮らしている時など、いちいち「外国人だから?」「肌の色が黄色いから?」「アジア人だから?」と神経を研ぎ澄ませているよりは、鈍感でいる方が楽だし衝突も少ない。しかし時には素早く牙をむいて受けて立つことだって必要だ。しかし、私にはそういう力は備わっていない気がするのだ。

翌日、アンドレーサはケルホに来なかった。こういう時には申し合わせたようにハズビエと帰りが同じになる。「ねぇ、あれってどうだったの?」と私が聞くとハズビエは「あの泥棒事件? 私あの時、ちょっと遠くでほかの話に夢中になっていたからよく知らないんだけど」と肩をすくめた。「あれは、本当にヴィライは誰よりも先にアンドレーサに鞄の中身を見せろと言ったの?」と聞くと「多分そうだと思う。私が気付いた時にはアンドレーサはもう立ち上がって怒っていたから」と、ハズビエは困り顔で笑った。

私が「アンドレーサは他のことでもヴィライに怒っているのよ、お茶当番の時にシポニアと一緒になって召し使いみたいにこき使うって」と続けると「ああ、ヴィライとシポニアは何やら気が合うみたいね」とハズビエ。彼女はあまりこの話題に乗ってこなかった。

ほどなくしてハズビエが私の顔をのぞきこんで言う。「ねぇ、サチコ。フィンランド人の夫と暮らすってどう?」と。ハズビエは以前にも同じ質問を私に投げかけたことがある。フィンランド人の夫とフィンランドに暮らすことの方が“楽”だという彼女の見解はやはり変わらないのだろうか。

ハズビエは続けた。「シポニアはなんでもフィンランド式を受け入れて、古いコソボのしきたりはやめようとしているじゃない? 私だってそう。コソボにいたら私だってあのイラク人みたいにスカーフ被ってなきゃならないけど、していないでしょ。コソボに住んでいたら姑と一緒に家事やお料理を一族全員の分、全て切り盛りしているはずだわ」私はシポニアが「フィンランドは、お客さんを家に招くにもクッキー買ってきてコーヒー淹れるだけで良いから楽」とせいせいしたように言っていたことを思い出した。

「それはそれで楽で良い事なんだけど、夫はこの国に来てから、イスラムの戒律で禁止されているお酒を飲むことも覚えてしまったわ」とハズビエ。不意を突かれて「ええ! 飲んじゃっていいの?」と驚くと、ハズビエはふふふと低く笑った。「だって、誰も私達を止める人なんていないのよ。アラーだって、コソボに居る時には真上から見ているように感じるものだけど、こんな遠くじゃねぇ……」私は目を丸くするしかなかった。

成人男女が結婚して子どもを3人ももうけてから始めて口にするお酒というのは、どんな味がするものなのだろう? 私は最近姿を見せないイラク人女性が、お茶の時間にパウラが出したラム酒入りのチョコレートを吐きだした時のことを思い出した。口の中で禁じられた味を素早く感知した時、彼女はわずかに飛び上がり、憤りを込めてパウラに聞いたのだ。「これは何の味ですか?」と。一方、無宗教の私ときたら自由だ。豚肉もアルコールも気にせず差し出されたら「いただきます」で生きている。しかし宗教の話を深くする気にはなれなかった。日本人が幅広く無宗教な理由の背景は、第二次世界大戦もひっくるめて話さなければならない。それをベビーカーを押しながら、それぞれの家路につく束の間の談話で、誤解の無いように話し切る自信が無かったのだ。

「サチコの旦那さんは飲む?」と聞くハズビエ。「これがねぇ、結婚してから飲むのやめちゃって。一人で飲んでもつまらないから私も飲んでないの。飲みたいなぁ~」と唇を曲げると、ハズビエは「まぁ、夫もまだそんなにたくさんは飲んでないからいいかな?」と空を見上げた。「そうだよ、こんな北の方まで見てないって」と私も上を見上げて笑った。恐れ多くも見知らぬ神の視界を勝手に語ってしまったが、彼女たちが新天地で新しい生活に慣れていくことを、彼女たちの神がそんなに目くじらを立てて怒るようには思えなかった。

母国に置き去り壊してゆく風習と思いがけず崩れていく信仰。やはり、移民になることは国際結婚よりも大変なのではないだろうか。ルーテル派のキリスト教徒が9割近くを占めるフィンランドに渡ってきた彼女達一家の冒険とその背景を想わずにはいられなかった。

《ペルヘケルホ人物紹介》
筆者=靴家さちこ:フィンランド人の夫との間に2人の男児を持つ日本人。外国人母子向けの児童館「ペルヘケルホ」に通い始めて間もなく1年が経とうとしている。

パウラ:ケラヴァ市がプロジェクトとして認可した「ペルヘケルホ」を運営するフィンランド人の職員。

アンドレーサ:筆者の夫の親友の妻でブラジル人。筆者の次男と同い年の長男を連れてケルホに通ってくるようになった。

ヴィライ:フィンランド人の夫との間に男児と女児を持つ、タイ人のママ。数か月前からケルホに通ってくるようになった。

ハズビエ:ケルホ創設時から通ってきているコソボ人。同郷の男性とフィンランドに移住し、3人の子どもを育てている。

シポニア:ケルホ創設時から通ってきているコソボ人。ハズビエより在住年数が短い。同郷の男性とフィンランドに移住し、2人の子どもを育てている。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』などの雑誌・ムックの他、『PUNTA』、『WEBRONZA』『ハフィントンポスト』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』などがある。