【これまであらすじ】
スペイン最後のバルゲーニョ職人フリオさんに出会い、トレドに伝わる民芸家具バルゲーニョが世界の家具に大きな影響を与えたことを教えられた筆者。フリオさんはもしや代々バルゲーニョ作りをしてきたイスラムの子孫のか問うと、そうではないと言う。ではなぜ、バルゲーニョを? フリオさんの人生の謎に迫る最終回!
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「でも、あなた、赤ちゃん用のミルクは手に入るのかしら?」
夫のフリオさんからプエルトリコ行きを打診されたとき、まだ乳飲み子の娘と、お腹には数ヶ月後に生まれる赤ちゃんのいる妻マリーベルさんは心配な気持ちを隠せませんでした。
実は、 プエルトリコからフリオさんの家具に惚れ込んだバイヤーがトレドまで来て、すでにフリオさんを説き伏せることに成功していました。
「ぜひ、うちの工場に来てください。そして、アメリカ相手に商売をしましょう!」
職人80人を抱える大工場の経営者として、トレドを離れることはほぼ不可能な現実。
とはいえ、ひとりの職人として、その腕を試せるチャンスには違いない。ドイツやフランスの家具フェアに出展して、他国の人々と触れ合って、トレドの外にある大きな世界への興味が途方もなく膨らんでいく。自分の気持ちに嘘はつけない。
25歳。今、冒険しなくて、どうする?
工場は、共同出資している仲間に任せることで落ち着きました。今度は妻を納得させなければなりません。
「大丈夫だろ、なんとかなるさ」
内心の不安は隠し、大声で笑って妻を安心させました。
こうして、カリブにあることとスペイン語が通じることくらいしか知らない“場所”プエルトリコへと、旅立っていきました。1968年のことです。
プエルトリコを“場所”と書くのには、深い理由があります。国のイメージがあるのですが、国ではないのです。500年前にさかのぼってみましょう。
イザベル女王と夫フェルナンド国王が、スペイン全土からユダヤ人を追放し、国土再征服運動を完了させたのは、1492年のこと。両王の命で新大陸発見に出たコロンブスが翌1493年秋に到着して以来、プエルトリコは約400年間、スペイン領となりました。1898年の米西戦争でスペインが負けると、今度は米国自治区連邦区になり、現在もその状態が続いています。
「プエルトリコでは、年老いた隣人が、『若い時はスペイン人だったのに、途中でアメリカ人になった』と言っていた。そういうこともあるんだね」
フリオさん一家が住んだのは 「アシエンダ」と呼ばれるスパニッシュ・スタイルの大邸宅でした。 新市街の分譲住宅とはいえ、映画『風と共に去りぬ』に出てくるような広大な庭を持つ邸宅です。庭にはマンゴーやバナナ、色とりどりのトロピカルフルーツが1年に何回もたわわに実り、妻も大喜び。
乳飲み子用の粉ミルクを心配していた妻の不安も、到着したらいっぺんに吹き飛びました。なにしろ、プエルトリコはアメリカ領。独裁政権下のスペインでは見たことのなかったものが溢れているのです。スペインにはない大型スーパーマーケットがあり、欲しいものが何でも揃い、ウィーケン(週末)になると、みんな大きなカートに山ほど食料品を買い込みつつ、そこで社交も楽しみます。駐車場にも街にも、アメリカ車のキャデラックやマスタングがずらり。
「スペインの20年先は進んでいたんだな、プエルトリコは! 」
フリオさんの賭けは成功。この土地で10年間、腰をすえて仕事に邁進。彼の作る家具はアメリカでも大いに売れ、25歳から35歳という若さで、ひと財産を築いてしまいました。
現地にビジネスパートナーがいるとはいえ、家賃や家族の生活費は自己負担。家族を連れての異国住まい。家族のためにも、故郷で応援してくれている仲間のためにも、失敗はできない。真面目なフリオさんが一生懸命に働いたのはいうまでもありませんが、彼に無限のインスピレーションを与え続けてくれたものがあります。
それは、「ビエホ・サン・フアン」という愛称で知られる旧市街、サン・フアン・デ・プエルトリコそのものでした。
「びっくりしたね。一歩踏み入れた途端、そこは、まさにトレドだったんだよ。大聖堂も、石畳みも、ピソ(アパート)の色も形もバルコニーも」
フリオさんの現在のバルゲーニョ・ギャラリーから、石畳みと向かい側のピソがガラス越しに見えます。場所も旧市街。まるで「ビエホ・サン・フアン」の景色が見えてくるようです。私は指をさして聞き返しました。
「石畳みまでも、これと同じ形だったんですか?」
「そうなんだ。色も形も全く同じ。スペイン人たちは石畳みに使う四角い石ころまで、船で運んだんだよ。職人も連れて、あの街でトレドを再現させようとしたんだ。そのことに、本当に驚いた」
「まあ、なんと」
新大陸発見が原動力となり、スペインは「日が沈むことのない」と謳われる史上最大の帝国 を作り上げましたが、コルテス、ピサロ、コロンブスという征服者たちの蛮行は今も批判の対象となっています。
「でも、良いこと、悪いこと、その両方をひっくるめて、歴史なんだよね。ビエホ・サン・フアンの街が教えてくれたのは、トレドの歴史そのものだった。トレドだって、もとは原住民の住む未開の土地だった。ローマが来て、原住民たちに圧勝して、ローマ軍は道作りから始め、町を作っていった。その上に今のトレドがある。 プエルトリコや中南米に行ったスペイン人も全く同じことをしたんだ。やがて、新しい勢力のアメリカに負けて、統治者スペインが去った。スペイン式の建築と文化が残った。それは新しいアメリカの文化と混ざり、発展していくことになる。プエルトリコへ行ったおかげで、歴史のサイクルというものを、肌で感じることができて、幸せだったよ」
フリオさんだけではなく、スペイン人の眼差しによる歴史語りには、史上最大の帝国という自国が作り上げた残像への誇りと、時代が変われば大国は負けるという法則を認める諦観が漂います。
「クレオール(主に仏西混血のカリブの人々) も我々も、同じさ。我々スペイン人自身、ローマやゲルマン、アラブやユダヤの混血だからね。ビエホ・サン・フアンでスペインが残した建築技術を見て、歴史と芸術の見方が完全に変わった。私の身体にも流れる多くの民族の血がこの街を作り上げた、と。ものすごく大きなインスピレーションを受けたんだ」
北大西洋の東の端から西の端へ。6351Km離れた町で、自分の存在にも関わる歴史を見つめ直したことが職人魂に大きく影響したことは、彼のその後の人生が示しています。これからは一般的な家具作りではなく、トレドが生んだ伝統文化だけをやっていきたいという気持ちになり、 35歳で帰国してから70歳をすぎるまでほぼ40年間、 フリオさんは一心不乱にバルゲーニョを製作するようになるのです。
2015年の秋、フリオさんは工場をたたみ、バルゲーニョを生んだカスティーラ・ラ・マンチャ州には、とうとうその職人がいなくなりました。スペイン北部に一人残っているそうですが、いつまで続くことか。
「売れなければね、職人はどうしようもない。安くて手っ取り早い家具がこうして世界中から入ってくるんだから。時代の波には勝てないね」
寂しそうな顔をするフリオさん。
22歳で独立し、25歳で海外に渡って大成功を収めた人生は、不安定な政治経済、失業、就職難にさいなまされる今の世界の若者たちにとって、羨ましい限りでしょう。時代が良かったのかもしれませんが、彼自身は、夜間学校の授業前の夕食も惜しむ貧乏な時代から出発しています。
フリオさんの口から、今の若者たちの背中を押してあげたい言葉がこぼれました。
「若者よ、心配しないで、世界に出なさい。旅をしなさい。旅の目的は『知ること』だ。現地に行って、知らなかったことを、肌で知ること。それが、自分の世界を広げる大きな力となるのだよ。毎日、会社と家の往復だけの人生は、安定を与えるだろう。けれど、人生を広げることはできないんだ」
世界に点在するバルゲーニョを線で結ぶと、一本の線がトレドから出てトレドに戻ることがわかります。
乳飲み子としてプエルトリコに渡り、英語とスペイン語のネイティブとなった長女イザベルは、美しく快活な女性に成長。英語教師として日本へ渡り、数年を過ごしました。娘が世話になっている人たちに振舞いたいと、大きなパエリア鍋を携えた妻のマリーベルさんとともに、フリオさんは日本の土を踏みました。娘を通した日本の人々との交流がきっかけでフリオさんの作品は注目を浴びることに。海を越えてお客様から注文が届き、いくつかのバルゲーニョが、日本へ旅立ったということです。
(「旅するバルゲーニョ」の項、完了)
《河合妙香(かわいたえこ)/プロフィール》
ライター・フォトグラファー。今年(2015)年9月、トレドを訪れた地球丸編集部やほいさんを、一足先に遊びに来ていたメンバーとホテルまで迎えに行ったところ、やほいさんが「ちょっとこっちへ来て」と私たちに手招き。「?」と思い付いて行ったホールには、年代物のバルゲーニョが! やっぱり実物を見ていただくと、こちらまで嬉しくなります。皆さんもトレドにいらっしゃる時は、お声をおかけください。とっておきのバルゲーニョ・ポイントにご案内いたします。
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