第1回 ファンドレイジングとは何ぞや

ニュージーランドで暮らしていると、人々の寛大さにびっくりする時がある。例えば、2014年に日本人の女の子が犬にかまれ、顔に大けがを負うという事件があった。ニュージーランドに住み始めてまだ数ヵ月の外国人の少女のために、あっという間に6万5,000NZドル(約500万円)が集まった。治療を行った病院が基金を設立し、全国に呼びかけた結果だ。経済大国ではないし、景気の回復も今ひとつで財布の紐も堅いはずなのに、こんな風にお金が集まる。規模の大小こそあれ、ファンドレイジングはニュージーランドにすっかり浸透している。

周囲に働きかけて、お金を集める

ファンドレイジング(fund-raising)」を英和辞典で引くと、「募金、資金集め、資金調達、募金活動」などと出ている。これは能動的な行動を表す言葉だと私は理解している。誰かが寄付してくれるのを「待つ」のではなくて、「自ら立ち上がり、活動を通して」お金を集める。「お金がなかったり、足りなかったりしても、自力で集めてやるぞ」という前向きな姿勢が、常に付随する。

ニュージーランドのファンドレイジングの定番中の定番、ソーセージ・シズル。バーベキューでソーセージを焼き、玉ねぎを炒め、それらを白い食パンに乗せ、トマトソースをかければ出来上がりだ。たいてい1個2NZドル(約150円)で、飛ぶように売れる © Hellers

ファンドレイジングと聞くと、慈善団体が主宰するものと思いがちだが、ニュージーランドでは、他のさまざまな団体や組織も頻繁に行っている。その代表が学校などの教育機関。政府からの給付金や各家庭からの寄付金だけでは足りないのが実情で、校内にある施設の整備、備品を充実させようと思ったら、ファンドレイジングをすることになる。国内のPTAのウェブサイトには、しっかり「学校でファンドレイジングをする際のアイデア」なるページがあり、どんな活動を行えば良いかが約70も掲載され、それでも足りぬとばかりに常に新しい案を募集中だ。

資金が不足しているからといって、恥ずかしがることはない。各々のプロジェクトをやり遂げるために行われるファンドレイジングは、ニュージーランド社会ではごく普通のこと。たいていの場合、好意的に受け止められ、皆応援してくれる。今まで、ファンドレイジングは物理的に主宰者側の手の届く範囲でしか行うことができなかった。しかしインターネットが普及する昨今はクラウドファンディングという手がある。国内全域はもちろん、世界に出資を呼びかけることができるようになり、ファンドレイジングの可能性が広がっている。

ニュージーランドの代表的なクラウドファンディング・プラットフォーム「ギブ・ア・リトル」に掲載された、個人のために作られたファンドレイジングのページ

日本のクラウドファンディングには、社会やコミュニティに貢献したいというスタンスのプロジェクトが多いようだが、ニュージーランドの場合は個人のためのものも少なくない。「生後間もない子の成長を今後も見守れるよう、ガン患者の母親に十分な治療費を」であるとか、「手の施しようのない脳腫瘍に侵されている父親とその家族が思い出に残る旅に出かけるための旅費を」といった具合。サポートを受ける人の直接の知り合いだけでなく、共感を覚えた、会ったこともない人々が協力しているのを見ると、世の中捨てたものじゃないとうれしくなる。

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ファンドレイジングは、もちろん他国でも行われていることなのだが、私には、とてもニュージーランドらしいことのように思える。ニュージーランド人には資金がゼロでもあきらめず、何とか目標を達成してやろうという気概がある。さらに「募金をお願いします」と人が集まるところに立つだけに留まらず、寄付者に、よりお金を出してもらいやすくするにはどうすればよいか知恵を絞り、手がかかってもそのアイデアをもとに活動するのをいとわない。

これは彼ら、彼女らが、移住者であった祖先から受け継いだ開拓者魂のなせる業なのではないかと思う。どこからも隔絶された島の鬱蒼とした森林を、お互い助け合って切り開き、自力で今のニュージーランドを築いた開拓民たち。資金がなかったり、不足したりしても、協力し、お金を出し合いながら、目標を達成する現代のニュージーランド人の姿は、先人のそれとだぶるところがある。

クローディアー真理/プロフィール
フリーランスライター。1998年よりニュージーランド在住。雑誌、ウェブサイトを中心に、文化、子育て・教育、環境、ビジネスといった分野で執筆活動を行う。