第20回 アニーサの正体

ハズビエの愛娘アニーサは、色白の肌に茶色い巻き毛が愛らしく、1歳半にして母国語(アルバニア語)もフィンランド語もたくさん話せた。男児二人を産んでようやく授かったアニーサのことをハズビエは「プリンセッサ(お姫さま)」と呼び、言葉の発達が早く、賢い娘を誇りに思っていた。アニーサよりも若干月齢が上で身体も大きかった次男は「ラリラリ」とか「デッゴーン」という不思議な発話を繰り返すだけだったので「ほらね、女の子って賢いのよ」と微笑むハズビエが羨ましかった。

人見知りが強かった長男は、なかなか人に預けることができず、保育園の慣らしにも手こずったことから、次男にはもっと小さいうちから親離れしてもらおうと、ケルホでのフィンランド語講座や、ママさんフィットネスや、日本文化の講演などに私は積極的に参加し、次男をケルホに預けることが多かったが、アンドレーサはよく「ミナ・エン(私はやらない)」と断り息子のルーカスと残ることが多かった。

ルーカスは、いつもご機嫌で子ども部屋に飛び込んで来るので、ママがべったり付いてなくてもいいのでは? と私が言うと、アンドレーサは「アニーサが叩くから目が離せない。ユウキも叩かれているから気をつけた方がいいわよ」と返す。個性が強いコソボ人の中では、優しくて話しやすいハズビエの娘がそんなに凶暴だなんて、と驚いた。

気になったので、ママや職員達とのおしゃべりを我慢して子ども部屋に残るようにしてみたら、実際にアニーサは次男からおもちゃを取り上げたり、次男が遊びに入ろうとすると「エイ・サー(ダメ)!」と蹴散らすことがあった。彼女がそれをやっている間にハズビエは、他のママ達と一緒に「子どものことは神経質にならないで、もっと信じて大らかに育ててあげないと」と育児論をぶっている。

私は長男を育て始めた時から、大らかに信じられているせいで、やりたい放題のお子さんのせいで、やられ放題の我が子から目が離せなくなる不条理をあちこちで見てきた。お母さん同士、気が合う仲良い友達なのに、その素敵なママ友の子どもがどうしたものか意地悪な子だというサプライズも実は珍しくはない。

次男は独創的な喃語が流ちょうだったので、やがてケルホの子ども達の間で「ユウキ語」が流行した

うちでは子どもには夫が母国語のフィンランド語を教え、私は日本語を教えるのが原則だが、私は思い切って次男に「エイ・サー!」というフレーズを教えた。これは保育園に入れる前に身につけておいた方が良いキーフレーズで、これを言えずに自分が使っていたおもちゃを取られまいとにぎり続けた長男は、保育園の級友に噛まれている。『こどもちゃれんじ』のしまじろうの「かして」「どうぞ」「ありがとう」の世界は現実ではない。

それはさておき、私もアニーサを警戒し始めた時に事件は起こった。その日は、奥の部屋でナタリーとハズビエがケルホの職員と話していた。私はアンドレーサと子ども部屋に残り、ロアンがナタリーの娘を見ていた。ロアンはナタリーの娘に向かって「ほら、この娘ったら頭が良い!かわいいし、おりこうでママを待っているわね!」とほめた。そのロアンの周りを、アニーサがうろうろとついて回っているようだった。ロアンがナタリーの娘を床におろし、「あらまぁ」、アニーサったらやきもちを焼いているみたい」という声を背後に聞いたその時だった、私の目の前でアニーサが、チョキにした右手でナタリーの娘の両目を突いたのは。

火がついたような泣き声に、血相を変えたナタリーが部屋から飛び出し、「一瞬目を離したばっかりに!」と叫んで駆け寄ったロアンがアニーサを抱き上げて叱責した。私は一瞬躊躇したが、ナタリーに向かって指チョキにしてみせて「こうやって目を突かれたのよ」と告げた。

翌日、ナタリーと娘は来なかった。ハズビエとアニーサもまだ来ておらず、パウラがもう一度何が起こったのか説明を求めたので、私とロアンが口々に見たことを告げた。アンドレーサは「言いたくないけど、アニーサはルーカスのことをぶつのよ」とこぼし、なぜか少し嬉しげにシポニアも「あの娘は乱暴なのよ」と付け足した。

その次の日のお茶の時間に、すっと息を吸い込んで、またパウラが口火を切った。「ハズビエ、あなたね、アニーサが周りの子ども達に乱暴するのを知ってる?」と。「ええ!」とショックを隠し切れないハズビエにロアンがナタリーの娘の件を伝え、唯一の目撃者の私は見たままを伝えた。「そんな……うちのプリンセッサが?確かにちょっと気性が荒いとこともあるけれど……」と口ごもるハズビエにアンドレーサが「ルーカスはアニーサを怖がってる」と言い放った。

「他の人はどう?サチコの子どもは?」とパウラが促すので「ユウキもアニーサのこと、怖がってるよ。殴られてはいないみたいだけど、おもちゃを取り上げるし」と告げた。友を告発するようなこの話し合いは私には辛かったが、ハズビエの「ええ!全然気がつかなかった!なんでみんな教えてくれなかったの?」と狼狽する様子を見ると、やはりこれは必要なことだったと確信した。これでハズビエも来なくなったら寂しい限りだが、自分の子どもの正体ぐらいは母として良く知っておかなければならない。

この事件を機に私は、人の人格は育てられ方や環境だけで出来るものでは無いという確信を深めた。アニーサのような子は実はそんなに珍しくはない。ただ単に広い好奇心の中に意地悪も含まれているだけなのだ。誰にでも優しくて、非の打ちどころが無い人に限って、どういうわけかそういう子どもがいる場合もある。でも一時的なことで、早く気付いてきちんと叱ってあげれば、成長するにつけその子の親と同様に素敵な人になる例も少なくはない。私にはハズビエにかける言葉が見つからずケルホを後にした。いつかアニーサがハズビエのような優しくてみんなを包み込む女の子になる日のことを想いながら。

《ペルヘケルホ人物紹介》
筆者=靴家さちこ:フィンランド人の夫との間に2人の男児を持つ日本人。外国人母子向けの児童館「ペルヘケルホ」に次男と通い、フィンランド語を鍛えている。

アンドレーサ:筆者の夫の親友の妻でブラジル人。筆者の次男と同い年の長男ルーカスを連れてケルホに通ってくるようになった。

ハズビエ: ケルホ創設時から通ってきているコソボ人の中で最も在住年数が長い。同郷の男性とフィンランドに移住し、アニーサを含む3人の子どもを育てている。

シポニア:ケルホ創設時から通ってきているコソボ人。同郷の男性とフィンランドに移住し、ケルホに通う娘を含む2人の子どもを育てている。

ナタリー:流ちょうなフィンランド語を操るロシア人。フィンランド人の夫と国際結婚しており、最近1歳ぐらいの娘を連れてケルホに通ってくるようになったばかり。

パウラ:ケラヴァ市がプロジェクトとして認可した「ペルヘケルホ」を運営するフィンランド人の職員。

ロアン:ケルホに最も多く集まるベトナム移民向けに翻訳と通訳もこなす、ペルヘケルホのアシスタント職員。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』などの雑誌・ムックの他、『T-SITE』『ハフィントンポスト』『NewsPics』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』などがある。