第38回 なんちゃってトリリンガル
英語がわからなかったおかげでやけに楽しかったニューオリンズ

スペイン語も英語もさも流暢にしゃべるかのように、私のことをいいように誤解してくださっている人が少なからずいるのだが、それはとんだ大間違いというものだ。ハーフでもなければ、帰国子女でもない。ネイティブの連れ合いがいるわけでもなければ、現地在住でもない。日本の片田舎にある中学校に入学と同時に英語を始め、アラサーでやっとスペイン語を始めた私がぺらぺらなわけないでしょうが。

かれこれスペイン語圏に通算5年以上いることになるが、ひとところに腰を据えてずっといたわけではない。スペイン語を公用語とする国と地域は世界に21ある。2016年現在そのうちまだ行ったことがないのは、中米のコスタリカとパナマ、カリブ海のドミニカ共和国とアメリカ自治州プエルトリコ、アフリカの赤道ギニアの5カ所である。

かつて語学留学していたスペイン、グアテマラ、2002年当時は経済危機で物価が安くてすごしやすかったアルゼンチン、ギアナ高地に魅せられ現地旅行代理店で不法に働いていたベネズエラ、以前ガイドブックをつくっており、現在も運び屋として頻繁に飛ぶメキシコは、比較的長くいる国である。それ以外は短ければ3日、長くても3ヶ月ほどの滞在だ。

同じスペイン語でも宗主国と新大陸では、動詞の活用やよく使う時制が異なる。まったく意味が違う常用単語も多い。ことアルゼンチンに至ってはスペイン本国はもちろん、他の中南米諸国とも抑揚も発音もかなり異なり、スペイン語通訳泣かせである。そんな国々をずっと渡り歩いてきたものだから、スペイン語の国ごとの違いには無駄に詳しくなったが、スペイン語そのものはまったく上達していない。

2015年初めは丸2.ヶ月、週に一度、洗濯に帰国する以外、ほとんどロサンゼルスにいた。するとどうだろう、毎日英語漬けの甲斐あって飛躍的に聞き取れるようになった。あともう1、2ヶ月アメリカ出張ばかりが続いていたら、せめて自分史上の全盛期レベルまでは英会話能力も取り戻すことができたかもしれない。だが2016年初め、例年にない目も回るような忙しさにすっかり疲れた私は、この16年間通い続けている国メキシコとこれが初上陸となるキューバに、あろうことか2ヶ月近くもいてしまったのだった。

さて、その後帰国前に立ち寄ったニューオリンズでなにが起こったか? どっぷりスペイン語漬けだったせいで、ほぼ英語が聞き取れなくなってしまっていたのである。南部訛りの強い黒人だけならまだしも、白人の言ってることもちんぷんかんぷん。フレンドリーなアメリカ人に話しかけられるたびに、まるで英語がわからない日本人のようにあいまいな笑みを浮かべるしかなかった。

マルチリンガルの人はしゃべれる言語の数だけスイッチがある。場面に応じて脳みそのどこかにあるスイッチを切り換えて対応する。しかし、似非トリリンガルな私にはスイッチが2つしかない。日本語、スペイン語、英語の3択であらねばならないところが、日本語、外国語の2択なのだから、さあ大変。スペイン語と英語が足りない容量を奪い合う。だから、アメリカにしばらくいるなら英語が、スペイン語圏にしばらくいるならスペイン語が、大脳皮質にはびこるはめになるのだ。

ところで、私を殺すには刃物はいらない。スペイン語字幕つきのアメリカ映画のひとつも見せればよい。あるいは英語字幕つきのスペイン語圏の映画でもよい。台詞も字幕もどちらもわかるようなわからんようななので、どうしても両方とも追って補完しようとしてしまう。かくしてエンドロールが流れるころには、吐き気を催すほどの頭痛に見舞われることになる。

こんな私だが業務に支障は一切ない。アメリカはカリフォルニアかテキサスへ飛ぶことが多いのだが、私に言わせりゃ両州ともメキシコである。実際、カリフォルニア州は1847年まで、テキサス州は1836年までメキシコ領だった。もはやアメリカ国内におけるヒスパニック系人口はアフリカ系を上回り、アメリカ国内のスペイン語話者の人口はスペイン本国よりも多いご時世である。

バイリンガルである彼らラティーノは、スペイン語と英語のちゃんぽんでしゃべってもちゃんと理解してくれる。英語でどう言うかわからないときはスペイン語で、スペイン語でどう言うかわからないときは英語でついしゃべってしまう。このうまい逃げ道をどうやって断てというのだ? かくなるうえはスパングリッシュで生きていってやる所存である。

片岡恭子(かたおか・きょうこ)/プロフィール
1968年京都府生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。同大図書館司書として勤めた後、スペインのコンプルテンセ大学に留学。中南米を3年に渡って放浪。ベネズエラで不法労働中、民放テレビ番組をコーディネート。帰国後、NHKラジオ番組にカリスマバックパッカーとして出演。下川裕治氏が編集長を務める旅行誌に連載。蔵前仁一氏が主宰する『旅行人』に寄稿。新宿ネイキッドロフトで主催する旅イベント「旅人の夜」が7年目を迎える。ロックバンド、神聖かまってちゃんの大ファン。2016年現在、50カ国を歴訪。処女作『棄国子女-転がる石という生き方』(春秋社)絶賛発売中!

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