第20回 闘牛士を守る刺繍 -その5-

「自由に取材してくださいね。ぼくは仕事を続けているから」と、奥に行ってしまったアントニオさんが、時間を見計らって、ニコニコしながら戻ってきました。

「どうだい、いい写真が撮れたかい?」

「はい」

「それはよかった。じゃあ、今度はあっちでゆっくり話をしよう」

玄関を開けてお邪魔した時、「話は後でゆっくりするとして、先にアトリエを見学してもらおう。それでいいかな?」とわたしに聞いたのには、理由がありました。

子供のころから、職人の世界を通して闘牛士と接してきたアントニオさんは、 お子さんがいないこともあり、若い人たちや外国の人たちに、自分の知っているあらゆることを伝授したい、それこそ自分に与えられた大切な仕事だと心得ている方だったのです。先に済ますことは済ませてから、伝えるべきことを伝えようという段取りでいたと、あとでわかったのです。

剣持ちが持ち込んできた闘牛士の剣

通されたのは、凛とした空気とレトロな雰囲気が相まった別室。大きな木製カウンター、生地の見本、試着室、壁に掛けられた額入りの装飾サンプル、貴重な品々を展示するショーケース。ここは、何の説明を受けなくてもそれとわかる、歴代の闘牛士たちがアントニオさんから衣装を受け取ってきた場所です。

「日本の観光客は、闘牛は見に行っても細かいことは知らないので、いろいろと伝えられるように頑張りますね」

と取材をさせてくださったお礼を言いかけた時のことです。

「ほら、これを見て」

アントニオさんがガラスのショーケースから丁寧に取り出し、わたしに手渡したのは、2冊の本。小学館の漫画、『ゴロンドリーナ』でした。

「日本ではこんなに闘牛が人気なんだね。びっくりだよ」

驚いたのは、私の方です。

アントニオさんが差し出してくれた漫画 『ゴロンドリーナ』(えすとえむ著・小学館)

「作者の方がね、うちに来て、衣装について、色々と調べていかれた」

私は内心、(なんと独特な着眼点!  ここまで進んでいたのか、日本!)と恐れ入った気持ちが湧き上がったのですが、同時に 自分の視野の狭さを恥じました。この連載の冒頭にも書いたように、日本では、闘牛に関する本や資料があまりないと思い込んでいたのです。

闘牛に関する情報も人間関係の描写もその詳しさが半端ではない『ゴロンドリーナ』に圧倒されていた時、来客がありました。「剣持ち(モソ・デ・エスパーダ)」と呼ばれる、闘牛士の秘書のような存在の男性でした。手には、2本の細長い剣を携えています。

「この剣、チタンのに変えてくれるかな? この前見せてくれたあの軽いやつ。こっちは重くて、使いにくいって言うから」

ボソボソッと話すアンダルシア訛りの強いスペイン語。剣を渡す時に見えた太い指 。陽によく焼けた赤い肌。鋭い眼光。田舎の闘牛練習場の雰囲気と香りが、そのまま満身に漂っています。

「わかりました。じゃあ、小僧を呼んで取りに行かせましょう。ああ、それから、メキシコ興行の衣装もできているから、それも持ってこさせますね。ちょっとお待ちを」

凛とした居間に二人ぽつんと残された私たち。彼が恥ずかしがり屋であることはすぐわかったので、話しかけようかどうか迷いながらも、静寂のまま数分を過ごすのは寂しすぎると思うわたしの性格もあって、 彼に話しかけました。

「メキシコに行くんですか?」

「スペイン国内での試合が全部終わったから、南米ツアーが始まるんだ」

「まあ。南米ツアー。その最初がメキシコなんですか……?」

彼のまなざしが、カウンターの上に置かれた『ゴロンドリーナ』に注がれていました。

「なにそれ?」

「日本の漫画です」

「へえ。見てもいい?」

「どうぞ」

彼に手渡すと、
「言葉がわかんないなあ」と言いつつも、興味深そうにめくっています。

そのうちに、アトリエから、アントニオさんがスタッフの若い男性ととともに、両腕にいろいろ抱えて戻ってきました。

アントニオさんと剣持ちのやりとりは、まるで舞台。私は完全に観客と化していた

剣や衣装の確認を、それらを使う闘牛士の近況や南米ツアーの話題をおりまぜながら進めた仕立屋とプロのやりとりの一部始終は、約45分間。まるで舞台を見ているかのように続きました。

アントニオさんと剣持ちのやりとりは、まるで舞台。私は完全に観客と化していた。

「ごめんごめん、だいぶお待たせしちゃったね。でも、グッド・タイミングだったね。取材中に全部発生するなんて」

剣持ちが帰った後の、アントニオさんの第一声です。

「おかげさまで。本当にラッキーでした!」

「まだ、時間は大丈夫?」

「今日という日をアントニオさんに捧げてますから、大丈夫!」

「ああ、そうかい、ありがとう。 ぼくはこの業界が長いだろ。話したいことがたくさんあるの。今日はね、闘牛について、大事なことを三つ、お話ししよう」

待ってましたとばかり、私は両手を合わせて喜びました。

「一つ目は、衣装だ。いつから今の形になったか知っているかい? あれは、19世紀、ナポレオン軍の兵士が着ていた軍服のデザインがスペインでもすごく流行って、みんなこぞって取り入れたという時期があった。その名残さ」

短めの上着、両肩の装飾。足にぴったり張りつくズボンと靴下。そして靴の形。有名なその肖像画の中で、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトがまとっている服は、闘牛士の衣装とそっくりです。

「二つ目はね、闘牛士と雄牛の愛についてだ。己を捧げる。それこそ究極の愛というものだ。 闘牛の本質もそこにある。命を自分に与える牛だからこそ、牛を追う時に闘牛士は愛をこめた言葉を投げかけ、牛もまた、それに応えるのだ」

なるほど。それを聞いた時、場違いな想像だったかもしれませんが、愛と死と闘牛を渾然一体にしたタイトル『愛のコリーダ』を採択した大島渚監督の狙いを、はじめて正確に明かしてもらったような気がしました。

「それからね、闘牛士は、試合の前日は、女と寝てはいけない。なぜかわかるかい? 牛が女の匂いを嗅いで予期しない行動に出るのを防ぐためだ。牛は、嫉妬するんだよ。女の影を感じて狂ってしまうんだな。 彼らの嗅覚は、我々の想像をはるかに超えて鋭い。風呂に入っても消えないらしいよ、身体についた女の匂いは」

現実世界からかけ離れた時間とリズムが流れ、古き良きスペインを感じるこの空間で、大人の童話にもなりそうな話を聞きながら、ここは考えていたよりもはるかに優しく、温かみに溢れた、エレガントな世界であったことを知りました。

残酷か伝統か。今もって答えなど出ず、議論もやむことなどないであろう闘牛。しかしその裏では、関わる人々の心を酩酊させる、語り尽くせないほど多くの物語が生まれ続けているのでした。残酷の刻印を押すのは簡単です。しかし、食肉工場で日々行われている屠殺とその恩恵を受ける食文化は伏せて、この伝統を消し去ろうというのなら、それは傲慢なモダニズムというもの。むしろ辛辣な攻撃に耐えながら伝統を守り続ける業界の姿に、大自然の姿に通じる強さと愛おしさを感じるのは、わたしだけでしょうか?

えすとえむさんによる献本。サインとイラストが素敵

それにしても、アントニオさんのアトリエで『ゴロンドリーナ』と題した日本の漫画に出会うとは。作者えすとえむさんについて、ネットで数々の記事を読みながら、当「闘牛士を守る衣装」の連載がそこに帰着するという展開に、「面白い時代になっているなあ」と、つくづく感じ入ったのでした。

最後に、えすとえむさんについての興味深いサイトをいくつかご紹介し、『闘牛士を守る刺繍』を終了いたします。5回にわたる連載にお付き合いくださり、ありがとうございました!

「IKKI COMIX – Golondrina ゴロンドリーナ」
小学館の公式サイト。アントニオさんは、この漫画の影響で私が取材を申し込んだと思ったに違いない。

「コミックナタリー えすとえむXオノ・ナツメ 酩酊お絵描き対談」
最近の漫画の動向もわかる人気漫画家同士の対談。 制作秘話がおもしろい!

「sorachinoのブログ」
闘牛を知らない読者の視点で、闘牛について勉強させてくれるブログ。

「TORJA TORONTO + JAPAN MAGAZINE カナダ・トロント生活情報サイト-6月 1, 2014 注目の作家 えすとえむさん インタビュー
在外の日本漫画ファンの動向もわかる話に、興味津々

河合妙香(かわいたえこ)/プロフィール
スペイン在住ライター・フォトグラファー。年末は予定どおり、車で2000kmを走破しました。でも前号で宣言したポルトガルへは回らず、未踏の地だったサンチャゴ・デ・コンポステーラと、北部の3州(ガリシア、アストゥリアス、カンタブリア)へ。風景の美しさに胸を打たれ、すっかりドライブが病みつきに。次こそポルトガル、そしてフランスのプロヴァンスへと、ドライブの計画が頭の中でクルクル回る今日この頃です。安全運転を心がけなくちゃね。