第15回 西海橋
新西海橋(左)と西海橋(右)

長崎県は島の数日本一、海岸線の長さは全国二位、半島が多く複雑な形をしている。地図を見ると真ん中の大村湾を抱きかかえるように半島が伸び、島が散らばる。船は重要な交通手段だが海が荒れるとお手上げだ。そこで島や岬に橋を架ける。西海橋(さいかいばし)は西彼杵(にしそのぎ)半島と針生(はりお)島の間にある。毎日大量の車と人が行き来する。西海橋の脇には遊歩道や公園があり、車を停めてしばらくさるいてみる。眼下に真っ青な海と白い波が泡立つ断崖が見える。時には渦潮も現れる。景色が美しくて、通り過ぎるには惜しいところだ。隣には双子のように新西海橋が並んでいる。

長らく「陸の孤島」だった西彼杵半島には現在も鉄道がない。西海橋は1955年に開通、長崎市から西彼杵半島を通って佐世保へ向かう道は重要なルートとなった。外海(そとめ)(第5回「外海」参照)を経由して海沿いの国道202号を北上するか、大村湾側の国道206号を利用するか、両国道は半島の端で合流し、西海橋または新西海橋を渡って海を越える。新西海橋は当初第二西海橋と呼ばれ、2006年開通とまだ新しく、桁下に歩行者専用道がある。展望室の床にあるガラス窓からは渦潮も見える。

 

新西海橋/西海橋

西海橋からほんの少し先を眺めると、不気味な灰色の尖塔が3本見える。針生送信所の無線塔である。旧日本軍の施設で見学路もある。針生送信所を知らなくても「ニイタカヤマノボレ」という暗号を聞いたことがあるだろうか? 太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」はここから送信された。(最初に他の送信所が発信し、針生送信所が中国大陸や南太平洋の部隊に再発信したといわれる)その後日本は真珠湾を攻撃する。当時の長崎は軍事拠点であった。幕末からグラバーや坂本龍馬が武器の売買に着手していたが、開国以後は造船業、炭鉱業、重工業が発展、軍需によって栄えていたのだ。

 

針生送信所の無線塔

 

戦前に軍事施設と海兵団が置かれた針生島は、敗戦後に外地からの引揚港に指定される。多くの日本人が中国大陸、東南アジアなどから船で引き揚げてきた。西海橋から少し行くと浦頭引揚記念平和公園と記念資料館がある。引揚港、自衛隊の駐屯地、工業団地と変遷を経て、現在の針生島にはハウステンボスが建つ。長崎への観光客の大半が訪れるハウステンボスについては語るまでもないのでネットで詳細等ご覧いただきたい。ハウステンボスに直結するJR大村線の駅は大勢の乗客が利用するが、ひとつ手前に南風崎(はえのさき)という無人駅がひっそりとある。かつて引揚者が専用列車に乗り込んだ駅である。

 

浦頭引揚記念平和公園/西海橋付近の地図

 

西海橋と新西海橋は並んで架かる美しい橋としてよく紹介される。くっきりと2つの橋のアーチが海と空に映え、周囲の景色と調和して見ごたえがある。陸路で移動すれば荒波も怖くない、本当にありがたい。澄み渡る空の下、紺碧の海を眺めながら対岸に向かって橋を渡っていくときの爽快さ……しかし、眩しい夏の光の中にふっと影のように横たわる戦争の痕跡を見るたび、日本が辿った歴史と長崎に落ちた原爆を思う。西海橋を渡るたびにわき上がるこの思いは、決して消えることがない。どんなに明るい夏空の下でも。


 

◇写真提供協力 (一社)長崎県観光連盟

(参考)
西海橋(長崎県立西海橋公園)針生無線塔(針生送信所)浦頭引揚記念平和公園・資料館ハウステンボス南風崎駅

 

えふなおこ(Naoko F)/プロフィール
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。