第45回 メキシコ副王領としてのフィリピン
ミンダナオ島サンボアンガにあるムスリムの村タルクサンガイ

フィリピンではドゥテルテ大統領が西部劇に出てくる保安官よろしく、あいかわらず強権を発動している。麻薬撲滅のためには手段を選ばない超法規的私刑で、撲滅運動開始7ヶ月で死者は7千人を超えたそうだ。

良識ある地球市民のみなさんは、皆一様にドゥテルテ大統領の蛮行に眉をひそめているに違いない。しかし、フィリピンにもメキシコにも行き倒している私は、逆に「フィリピンはずいぶんまともなんだな」と思った。

メキシコの大統領がドゥテルテ大統領のように「俺が法律だ!」と宣言すれば、就任するや否やたちまち暗殺されてしまうだろう。2012年に就任した現職のペニャ・ニエト大統領は疑惑と汚職まみれ。おまけに麻薬カルテルと仲良し。国民に安全と正義をもたらすようにとローマ法王から苦言を呈されたほどだ。

カルデロン前大統領は麻薬組織制圧にメキシコ軍を送りこんだが、この清掃作戦は5万5千人もの死者を出した。成果と引きかえに払った犠牲は大きかった。大統領自身も暗殺の危険にさらされ、この10年で100人近い市長と1000人以上の自治体職員が殺害されている。

フィリピンは1521年にマゼランが来てから1821年にメキシコがスペインから独立するまでの300年間、メキシコ副王領だった。1565年に初代フィリピン総督レガスピが太平洋航路でフィリピンに到達して以来、1815年までの250年間、ガレオン貿易が行われた。

ガレオン貿易とはフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコ間をガレオン船で行き来する貿易のことだ。スペイン商人は中国からの絹織物と陶磁器をメキシコに運び、メキシコで産出する銀を本国スペインに持ち帰った。

伊達政宗の命で慶長遣欧使節団を率いて1615年にスペインへと渡った支倉常長。1609年にフィリピンからメキシコへの途中、台風のため千葉県でガレオン船が座礁したことがきっかけで、当時、日本とスペインの間には交流があった。一行が乗ったサン・ファン・バウティスタ号がまさにガレオン船で、取ったルートもガレオン貿易と同じであった。

太平洋岸アカプルコから大西洋岸ベラクルスまでは陸路である。道中、使節団の先遣隊がメキシコシティで盗人を無礼討ちにして刀を取り上げられている。メキシコで切捨御免とは、当時からメキシコは治安が悪く、日本人は今よりもはるかにワイルドだったのである。

なお、長崎市内にある聖フィリッポ西坂教会は、カトリック教会から列聖されたメキシコ人初の聖人フィリッポ・デ・ヘススのためにメキシコからの浄財で建てられた。1596年に台風のため土佐沖に漂着したガレオン船サン・フェリペ号に乗っていたフランシスコ会修道士のうちの一人が聖フィリッポだった。1597年に豊臣秀吉の命令で日本二十六聖人として西坂の丘で処刑されたフィリッポは、死後235年を経て列聖された。

スペイン人がやってきた当時、フィリピンはまだ今のような7109の島から成る国ではなかった。せいぜいおらが村、おらが島という帰属意識しかなかった。フィリピンの国名はスペイン皇太子フェリペから来ている。マゼランはセブ島に上陸し、マクタン島の首長ラプ・ラプに討たれる。マゼランの死の翌年1522年にマゼラン艦隊はマゼラン抜きで史上初の世界一周を成し遂げた。

ドゥテルテ大統領はミンダナオ島のダバオ市長だった。ミンダナオは首都マニラがあるルソン島に次ぐ二番目に大きな島、ダバオはマニラ、セブに次ぐフィリピン第3の都市だ。ミンダナオ島最西端にあるサンボアンガという町は、メキシコ副王領時代は軍港であった。そのため、スペイン人との混血が多く、今もチャバカノ語というマレー系の言語とスペイン語が混じったクレオール語が話されている。もう一ヶ所、ガレオン貿易の拠点であったルソン島のカヴィテ州でもチャバカノ語が話されている。

1635年、サンボアンガにはイエズス会修道士によってピラール砦がつくられた。フィリピンとボルネオ島の間にあるスールー諸島にかつてあったスールー王国というイスラム教国や海賊からの襲撃に備えた要塞である。

そのピラール砦で警備員に試しにスペイン語で話しかけてみた。私がスペイン語で言っていることを彼は理解できるが、彼がチャバカノ語で言っていることは私にはわからない。動詞はスペイン語なのだが名詞がことごとく違うのだ。

「スペイン語で放映されているスペインやメキシコの映画やドラマは理解できますか?」
ミンダナオ島の共通語はセブアノ語、フィリピンの公用語はタガログ語と英語だ。1986年までスペイン語も国の公用語であった。
「メキシコのはわかるけれど、スペインのはよくわからない」
と英語での問いに英語で答えが返ってきた。

フィリピンがスペイン直轄となったのはメキシコが独立した1821年からフィリピンがアメリカ領となった1898年までの80年足らず。それ以前の300年間はずっとフィリピンはメキシコの管轄下にあった。元々彼らが慣れ親しんでいたスペイン語はメキシコのものなのである。

スペインの植民地であったフィリピンは、ASEAN唯一のカトリック教国である。国民の83%をカトリックが占め、ムスリムは5%だが、ミンダナオ島は人口の2割以上がムスリムである。

かつてマギンダナオ王国があったミンダナオ島西部、スールー王国があったスールー諸島、パラワン島南部は最後までスペイン領とはならなかった。マギンダナオ王国がスペイン領東インドに、スールー王国が米領フィリピンに併合されたのは19世紀のことである。

マギンダナオ王国の首都であったマラウィは、IS系のフィリピンのイスラム過激派であるアブ・サヤフやマウテに今年5月から占拠され、ミンダナオ全島に戒厳令が出ていた。フィリピン軍による空爆を含む攻撃により、この10月にマラウィ危機の終息が宣言された。スールー王国の首都があったホロ島は、アブ・サヤフの本拠地である。

大航海時代にマゼランを倒したマクタン島の首長ラプ・ラプはムスリムであった。8世紀から15世紀にかけてスペイン本国があるイベリア半島は、イスラム教とカトリック教との領土の奪い合いの最前線であった。スペインがかつて征服し損ねたフィリピン南部の島で、今もレコンキスタ(国土回復運動)は続いている。


片岡恭子(かたおか・きょうこ)/プロフィール
1968年京都府生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。同大図書館司書として勤めた後、スペインのコンプルテンセ大学に留学。中南米を3年に渡って放浪。ベネズエラで不法労働中、民放テレビ番組をコーディネート。帰国後、NHKラジオ番組にカリスマバックパッカーとして出演。下川裕治氏が編集長を務める旅行誌に連載。蔵前仁一氏が主宰する『旅行人』に寄稿。新宿ネイキッドロフトでの旅イベント「旅人の夜」主催。2017年現在、50カ国を歴訪。オフィス北野贔屓のランジャタイ推し。処女作『棄国子女-転がる石という生き方』(春秋社)絶賛発売中!

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