第26回 さようならアンドレーサ

2012年当時、ケラヴァ市最大の異文化交流イベントだった「カルチャーフォーラム」。もしもこの外国人用の育児サークル「ペルヘケルホ」を見つけていなかったら、こんなイベントのことなど知ることも、ましてや司会進行を手伝うこともなかったことだろう。次男と通い続けたこの3年間で、気が付いたらパウラに乗せられメリヤに押されて、職業訓練校やらキリスト教学校やらに出かけてはフィンランド在住の外国人としてレクチャーをし、隣町の40人近くもいる大規模な外国人女性会などとも交流するなど、私達の活動範囲は十分にケルホの外にまではみ出していた。

フィンランド早春の残雪。来る日も来る日もしつこくて消えない

もうこれ以上の規模のイベントは無いだろうと思って、カレンダーを見れば4月は目の前だった。アンドレーサはどうしているだろう?――私がそう思って携帯に手を伸ばすのは、それなりに自分にも少し余裕がある時だ。アンドレーサの妹のエーリカは、ブラジルに戻ったのだろうか?近況を聞きたくて、駅前のカフェで落ち合う約束をすると、ほぼ時間通りに笑顔のアンドレーサが現れた。

「久しぶりね。どうしていたの?」と聞くアンドレーサに、私は手短にカルチャーフォーラムの話をした。「え、シャジーコォー(相変わらず彼女は私の名前をこう発音する)が歌ったの? 聞きたかった!」とはしゃぐ彼女に異変があるとは思えなかった。そこで「エーリカはもう帰っちゃったの? 旅行、楽しかった?」と聞くと、「帰ったわよ。旅行はタンペレにエストニアに……あちこち連れていってあげたわ」とゆっくり答えるアンドレーサの声は、浮ついて乾いているようだった。3カ月も身内が来て盛り上がった後で、彼女も燃え尽きているのだろうか。

「それより私ね、ついに見ちゃったのよ」と、空を見上げながらアンドレーサは続けた。「エーリカが帰る間際のことだったんだけどね、どうしても寝付けない夜があって」アンドレーサは、身を固くしながら言葉を紡ぎ出した。「起きてみたら、ベッドの隣にミカ(夫)がいなかったのよ。それでルーカス(息子)の部屋かと思って探してみてもいない。キッチンにも応接間にも、ベランダにも」「じゃあトイレ?」「……にも居なかったの」そうすると、残るはエーリカを泊めていた客間しかない。「私、信じられなかった。ミカがそんなことするだなんて」再び空を見上げるアンドレーサの目は濡れていた。「そんな、まさか」私はそう言うのが精一杯だった。「あの部屋のドアは閉まっていたの。本当にミカは他のどこにもいなかったのよ」アンドレーサの目は大きく見開かれ、涙を流すまいと必死に持ちこたえているようだった。

ミカは友達と飲みに出かけたのでは? 車はあったの? エーリカは本当にその部屋にいたの? などなど、私は可能な限りを言ってみた。それらの可能性のどれか一つでもいいから当たりますようにと。しかし、アンドレーサは悲しい微笑みをたたえて、その一つ一つを否定していった。「ミカはエーリカの部屋にいたのよ。20代半ばの若い娘が同じ屋根の下にいるんですもの。いつそんな気になってもおかしくないわ」キッパリ断言するアンドレーサは、まっすぐ私を見て微笑んでいた。

ミカのことは、アンドレーサと出会う前から知っている。夫と高校時代からの親友で、長いこと独身だったミカ。寡黙で気が利いたことは言わないけど、慎み深く、よこしまな心など微塵も見られない、夫の親友。私達の結婚式にフィンランドから来てくれて、英語でスピーチをしてくれたミカ。アンドレーサとブラジルで出会って、ブラジルに通うようになってからポルトガル語を習い始め、今でもアンドレーサとはポルトガル語で話すミカ。アンドレーサをみんなに紹介した時のにやけ顔、結婚式の日のアンドレーサとミカ……話を聞きながらも、私の脳裏には、アンドレーサの推測を否定する様々な事実が駆け巡っていた。

「でもいいのよ。私はこんなことがあったからといって、ルーカスもいることだし、すぐに離婚したりはしないわ」とアンドレーサはつぶやいた。「ね、でも絶対にそうだとはまだ言えないと思うのよ」その先もまくし立てそうな私を遮ってアンドレーサは言った。「いいのよ。これで私の気持ちはすっきりしたの。これまでだってたくさん愚痴を聞いてもらってきたけど、夫婦仲はそれほど良くは無かったでしょ。ミカの気持ちがもう私には無いってわかったから、それでいいの。シャジーコォー、この前エーリカと行ったバーが良いところだったわ。今度一緒に行きましょう」とまた微笑むと、アンドレーサはふらふらと立ち上がり、乾いたハグを交わしてカフェを後にした。

私はもう、アンドレーサにしてあげられることは何も無くなったのだと理解した。人を疑い、嫉妬する地獄はどれほどのものなのだろう。こんな時こそ友として、同じ既婚者として、アンドレーサの気持ちに寄り添ってあげることができたら良かったのかもしれない。しかし、当時の私はもうキャパシティー・オーバーだった。次男の誕生、夫の早期退職、長男が普通学級に入れるかどうかの瀬戸際でやっと普通に就学、その後間もなく次男の言語障害の発覚と続いて、自分自身を支えることで精一杯だった。カルチャーフォーラムの話をアンドレーサにしたのも、話をしながらあれが本当に本当のことだったのだと、やっと自分で実感しているぐらいだったのだ。

アンドレーサ、ごめん。私は彼女としばらく会わないことを決めた。カフェの外は、淡灰色の曇り空とうすぼんやりした残雪の混沌が広がる、冷たいフィンランドの早春のことだった。

ペルヘケルホ人物紹介》
筆者=靴家さちこ:フィンランド人の夫との間に2人の男児を持つ日本人。外国人母子向けの児童館「ペルヘケルホ」に次男と通い、フィンランド語を鍛えている。

パウラとメリヤ:ケラヴァ市がプロジェクトとして認可した「ペルヘケルホ」を運営するフィンランド人の職員。明るくて真っ直ぐで、とてもパワフルな女性たち。

アンドレーサ:筆者に誘われて、筆者の次男と同い年の息子を連れて「ペルヘケルホ」に通ってくるようになったブラジル人。フィンランド人の夫のミカは、筆者の夫の高校時代からの親友。ここしばらくブラジルから遊びにきた妹エーリカを連れて、フィンランド各地を観光していた。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』などの雑誌・ムックの他、『T-SITE』『ハフィントンポスト』『NewsPics』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』などがある。