第27回(最終回)さようならペルヘケルホ
ケラヴァの街中。気が付いたら買い物するのに徒歩10分で歩けるはずのところを、次々にケルホ仲間に会うものだから、お店にたどり着くまで30分はかかるようになっていた

「どうだった? 今日の難民キャンプは?」家に帰ってきた私に、夫が声をかけた。私は時折、彼のこういう無神経さが気に入らない。日本からフィンランドに戻り、日常生活に何ひとつ不便を被らなくなった“元外国人”である夫が、ケルホのことをちゃかして「難民キャンプ」と呼ぶのはこれが初めてのことではなかった。「あのさぁ、ケルホに通ってきている人たちの中には本当に……」珍しく苛立ちを露にした私に、夫は戸惑って「何かあったの?」と聞いた。原因は考えるまでもなかった。先のアンドレーサの話を聞いてから、私は、頭が、いや地面が、ぐるぐる回り続けているような、なんともいえない混乱に陥ってしまったのだ。

口なら硬い。とりわけ女友達の秘密は絶対に漏らさないことにしている。この場合、私が夫に言って、夫からミカの耳に入ったら大変なことになるだろう。アンドレーサは自分の妹とミカが不貞を働いたと信じ込んでいるが、恐らくミカは潔白なのだ。嫉妬という感情は人を悲しくする。ありもしないことでアンドレーサに疑われていたと知ったらミカはどう反応するか。しかもそのことが親友の妻、親友という経由で耳に入ったら、悲しみを通り越して怒るだろう。とはいえ、このままにしておいてもいいのだろうか。あの場で妙に冷静だったアンドレーサだけど、家に帰ってどんな風にミカに接しているんだろうか。胸のざわつきがもう抑えられずに限界だった。

「ねぇ、絶対ミカに言わないでね」と夫に念を押すと、私は数時間前にカフェでアンドレーサから聞いた話をした。「ミカが?」夫は吹き出した。「アンドレーサは、あのミカがそんなことできるとでも思っているのかね?」「ね、やっぱりそんなことしないよね」「アンドレーサは、その、大丈夫なのかな?」「え?」「実はミカは、彼女のことを心配しているんだよ」夫にそう言われても驚かなかった。アンドレーサは独学で心理学を勉強すると言っていたし、実は一度気分の落ち込みがあまりにも強いので、ポルトガル語が話せる精神科医のところにも診察に行ったことがある。

「私、彼女のこと可哀そうなんだけど、もう何もしてあげられることがないのよね。私は私で、子供たちのことだけでも結構精一杯でしょ。もう、自分の想像の世界を超える他の夫婦の悩み事とか聞いてしまうと、自分も辛くなるだけで」「わかった。しばらく彼らとは会わないことにしよう。それにね、どの道もう会えなくなると思うんだ」「へ?」「こないだフィンランド中央のド田舎にある会社に面接しに行っただろう?」「あ!」「あれ、通っちゃったんだよ。就職できるんだ。あの町っていうか村、ここと比べたらとんでもなく田舎だけど、だから君には大変かもしれないけど、自然が豊かだし、子供たちには最高の環境だと思うんだよね」「わーお!」

フィンランド在住8年目。これは大きなターニングポイントだった。さようならアンドレーサ。いや、それだけではなくて、さようなら、ケラヴァ。ということは、さようならペルヘケルホ!足がすくんで、地が揺れた。地震ではない。日本から夫の国のフィンランドに移住し、乳飲み子を抱えて新天地で外国人になった私。耳から入っても意味をなさないフィンランド語に囲まれながら、ベビーカーを押して長男と公園から公園をさまよった日々。やっと長男を保育園に入れて語学教室に通い始めた時は奇跡のようで、この次は就職だと思ったら次男を授かった時の気持ちの揺れ。それでも長男の時に公園で友達を見つけるのに苦労した経験をもとに、次男と私はケルホを見つけ、外国人の仲間たちとフィンランド社会の様々な発見と冒険を共にしてきた。

そのケルホでも、次男と同じかそれより少し大きな子供たちは、もう保育園に通い始めた。子供たちが保育園に通い始めると、ママたちも語学コースに通い始めて、やがてインターンで働き、就職活動を始める。言語障害が発覚した次男は、その当時夫が会社を辞めて家に居るようになり、私もフリーランスライターをしていたので、「両親とも家にいる家庭では保育園に通わせることはできない」と夫が言い張るので、一時保育を週に3回、音楽教室を週に1回通わせて、時間さえあればケルホに通い続けていた。ケルホを「卒業」した仲間とケラヴァの街中で会うこともしばしあって、「もう外国人でいるのはいや。ケルホには行きたくもない」という人もいれば、「楽しかったわ。まだ通えるなんてうらやましい」「あの頃に帰ってみんなとコーヒー飲んでおしゃべりしたい」と目を遠くする人もいて、私はそのどちらにもただうなずいて聞いているだけだった。

さようならケルホ。私は手帳を開き、次男の一時保育と音楽教室が入っていない平日の午前中に印をつけた。ああこの日も、私はいつもの玄関のチャイムを鳴らす。パウラかメリヤかケルホの誰かが、ケルホのドアを開けて「モイ!」と迎え入れてくれるだろう。泣かないでお礼とお別れが言えるだろうか。月火水木、月火水木、来る日も来る日も通い続け「第二の応接間」とまで呼んでいたケルホ。夫と喧嘩して、本当に避難所に行くような気持ちで駆けこんで行った日もあった。私と次男の「卒業」はこんな形で、ある日突然訪れた。ありがとうケルホ。手帳を持つ手がふるえ、開いたページがぼやけて、涙で濡れた文字がにじんで揺れた。

《ペルヘケルホ人物紹介》

筆者=靴家さちこ:フィンランド人の夫との間に2人の男児を持つ日本人。外国人母子向けの児童館「ペルヘケルホ」に次男と通い、フィンランド語を鍛えている。

パウラとメリヤ:ケラヴァ市がプロジェクトとして認可した「ペルヘケルホ」を運営するフィンランド人の職員。明るくて真っ直ぐで、とてもパワフルな女性たち。

アンドレーサ:筆者に誘われて、筆者の次男と同い年の息子を連れて「ペルヘケルホ」に通ってくるようになったブラジル人。フィンランド人の夫のミカは、筆者の夫の高校時代からの親友。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』などの雑誌・ムックの他、『T-SITE』『ハフィントンポスト』『NewsPics』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』などがある。