第19回 少年使節

長崎空港は大村湾に浮かぶ箕島(みしま)を造成して建設した世界初の海上空港で、長崎上陸の際は箕島大橋という1キロ弱の連絡橋を車やバスで渡る(鉄道はない)。橋のたもとには「天正遣欧少年使節」の4人の像が建っている。車だと一瞬で通り過ぎるのでじっくり眺めるのは難しいが、この像を見るたび私は「ああ長崎だ」と感慨を覚える。その私も長崎にやってきた当初は「これ、誰だったかなあ」というほどの無知であった。しかし長崎との付き合いが深まるにつれ、彼らの数奇な人生に驚き、涙するまでになる。

「天正遣欧少年使節」は天正10年(1582年)に長崎からローマを目指して出航した。イエズス会ヴァリニャーノ司祭の発案で壮大な計画は実行された。長崎、九州の大名の縁者で前途有望なキリシタンの少年4人をローマ教皇に謁見させ、東洋の果ての日本にどれだけカトリックが根付いたかを知らせ、日本での布教にさらなる支援を受けるため。また、少年達にカトリックの都ローマを見せて帰国後の布教に役立てさせるため。日本人でヨーロッパに行って帰ったのは天正遣欧少年使節が史上初である。

詳細は書籍やインターネットで数多く紹介されているので読んでいただきたいが、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノという13~14歳の少年使節が8年かけて日本とヨーロッパを往復したのである。マカオ、インドを経由してポルトガルに到着、スペインで国王フェリペ2世、イタリアでメディチ家のトスカーナ大公はじめ各地の貴族の歓待を受け、遂にローマ教皇に謁見し、再びポルトガル、インド経由で無事に帰国した。現代も船でこの距離を行くのは大変だが、当時は我々の想像を絶する命がけの長旅だったに違いない。成長して戻った彼らは豊臣秀吉の前で西洋音楽を演奏した。秀吉は非常に喜んだというが、その後はキリシタン迫害に突き進んでいくので、運命とは酷いものである。

彼らが出航した時が日本におけるキリスト教絶頂期だったかと思う。ザビエル来日から約30年で全国の信者は爆発的に増え、長崎は大名の大村純忠によってイエズス会に寄進され、キリシタンあふれる「東洋の小ローマ」だった。しかし少年使節が旅立って数ヶ月後に本能寺の変が起き、キリスト教に寛容だった織田信長は殺される。秀吉から始まったキリシタン弾圧は徳川時代に本格化し、彼らの人生を変えた。伊東マンショは迫害が厳しくなる中で病死、千々石ミゲルは棄教、中浦ジュリアンは西坂で拷問され殉教、原マルチノはマカオへ追放され客死。彼らの時代から約250年、長崎を中心に隠れキリシタンの苦難が続く。(第3回「殉教の丘」参照)

今から数年前、イタリアで個人蔵だった絵画が伊東マンショの肖像とわかって話題になり、長崎や東京で公開された(その後も長崎歴史文化博物館では複製画を常設展示)。西坂の日本二十六聖人記念館でも天正遣欧少年使節の資料を見ることができる。しかし彼らにまつわる絵画や文書は日本国内よりもヨーロッパ、とくにイタリアやローマ教皇庁に保管されているものが多いようだ。これらが里帰りして日本の美術館を巡回することもある。先日も都内で少年使節がヴェネツィアに送った書簡を見たが、達筆な日本語と見事なイタリア語、4人のサインと花押が並び、教養の高さを感じるものであった。

今月はクリスマス、世界中でキリスト教徒が救世主の生誕を祝う。クリスチャン人口の少ない日本ながらも信者の多い長崎では教会がこの時とばかり美しくライトアップされミサが開かれるが、これは信仰の自由を得た潜伏キリシタンが復活して以来のことで(第4回「居留地」参照)、少年使節の時代の教会はことごとく破壊されたため存在しない。ただひとつ、当時の面影を残すのが「サント・ドミンゴ教会跡」で、小学校の敷地から偶然掘り出されたものである。伊東マンショの複製画がある長崎歴史文化博物館からすぐのところで、跡地まるごとを資料館内で保存展示している。この教会もわずか5年で破壊され、後に代官屋敷が建ったのだが、下の地層から石積みや花十字の瓦など出土品が見つかって、往時を知る非常に貴重なものである。ぜひともさるいてみんね。

(参考)
天正遣欧少年使節天正遣欧少年使節顕彰之像長崎歴史文化博物館日本二十六聖人記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館

えふなおこ(Naoko F)/プロフィール
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。