154号/林秀代

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阪神淡路大震災当時、我が家はまだ新婚で、築浅のマンションを借りて住んでいた。建物被害は「一部損壊」程度で、電気は早く復旧したため震災後もそのまま自宅にいた。しかし水道とガスは止まったままで、毎日水汲みや買い物のための行列に並び、空いた時間にあきらめ半分で、私は会社へ電話をかけていた。ビルの1階が倒壊し、立ち入りが禁止されていたことも知らずに。

震災後から神戸では電話回線のパンク状態が続き、我が家の電話は置物状態だったが、5日後ぐらいから、朝6時頃と夜11時から12時にかけて鳴るようになった。

どの電話も私達夫婦の安否を心配していた友人や親戚だった。何日も電話をかけ続けていた友人、人から公衆電話からはつながりやすいと聞いて、朝早くに公衆電話へ向かった叔母、「もう心配したわ! どうなん?」という友人の興奮した声。電話をかけてくれた人たちの心配や高ぶった気持ちがよくわかり、ありがたかった。しばらくの間、朝は電話で起こされ、夜は明かりを落としてからまた電話に起きる日が続いた。

私たちの安否を確認すると、誰もが「モノは足りているか」聞いてくれた。ズタズタになった交通と物流、そこに人々の必要とするものが集中するため、バケツや軍手ひとつを手に入れることも難しかった。遠くの友人や親戚が必要な日用品や食品を送ってくれて、急場をしのいだ。

「地球丸」をリニューアルするため、編集部では最近メールのやりとりや連絡が多くなり、「ほぼ24時間体制」だ。私が寝ている間も世界中にいる編集部員がつながって動いている。朝PCを立ち上げて、日本の夜中に行われた編集部のディスカッションを読むことから私の1日が始まることが多い。そして今日はまず、「また1年頑張らせてもらいます」とそっと手を合わせて、震災から16回目の1月17日を迎えている。

(神戸在住 林 秀代)