第10回 紅色の夢のあとは– 山西省・王家大院

息子と張壁村を出るとちょうどお昼時だった。普通は同じ店にいてもドライバーやガイドと客は一緒に食事をしないものだが、息子と私の二人だけで中華料理を食べてもたくさん残してしまうことになるので、ドライバーのAさんも一緒に食べる...
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うどんのような麺の刀削麺

うどんのような麺の刀削麺

息子と張壁村を出るとちょうどお昼時だった。普通は同じ店にいてもドライバーやガイドと客は一緒に食事をしないものだが、息子と私の二人だけで中華料理を食べてもたくさん残してしまうことになるので、ドライバーのAさんも一緒に食べるように勧めた。店に入りAさんにオススメを聞くと、王家豆腐(ワンジァドウフ)と言う。王家豆腐というのは、木綿豆腐とクコの実と野菜を豆乳のスープで炊いた鍋料理だ。これから行く王家大院と関係があるのかよくわからないが、肌寒かったので身体が温まり嬉しかった。他にも山西の定番料理である、きくらげと山芋の炒めものや、息子の大好物の刀削麺(ダオショウミェン)は外せない。この日はスープに入った麺ではなく、ゆでた麺に汁なしの好みの温かいタレをかけてもらうもので、トマトと卵にひき肉という息子の大好きな組み合わせ。山西省は麺天国で猫耳型の麺など多彩な麺があるうえ、タレの種類も豊富で組み合わせができるのが楽しい。

午後は平遥(ピンヤオ)のマッサージ店の店主に勧められた王家大院(ワンジアダーユェン)へ向かった。最初は映画『紅夢』のロケ地である喬家大院(チャオジアダーユェン)へ行く予定だったが店主が言うには、ロケ地であるかよりも、邸宅のスケールと、住宅の保存状態を考えると王家大院の方が見応えがあるとのことだ。平遥の近くにはこのような山西商人の大邸宅がいくつかあり、かつての栄華をうかがい知ることができる。

到着して門の前に立つと、塀の高さに圧倒されてしまった。王家大院の中は2078もの部屋があるという。故宮の9999の部屋数には及ばないが、私邸としては十分過ぎる部屋数だ。

城のような王家大院の門          高い壁に囲まれ迷子になりそう

城のような王家大院の門              高い壁に囲まれ迷子になりそう

中に入ると公園のように広々とした空間に木や池があり、坂の上に向かって敷き詰められるようにある建物の瓦屋根が折り重なって見える。これらの建物すべてを見学するとなると1日ではとても足りない。美しい彫刻の施された壁や、ベランダの高い壁に囲まれた路地を歩きながら、気が向いた建物に入っていく。その中のひとつに、赤いリボンや提灯で部屋の家具を装飾した婚礼の初夜の寝室があった。思わず映画『紅夢』を思いだした。

婚礼の日の寝室                  優雅な雰囲気のベランダ

映画『紅夢』は、清代が終わり近代化へと時代が移り変わる1920年頃、実家が没落した女子大生が、ある富豪の家に第四夫人として娶られたことから始まる。本妻である母親ほどの歳の第一夫人から第三夫人までが同居し、妾たちは主の寵愛を受けることをひたすら待つ。主が夜を過ごす夫人の部屋の前には、夕方に大きな赤い提灯が灯され、その夫人が妾達の食事のメニューを決め、気持ちのよい足マッサージを受けることができる。いわば提灯が女たちのささやかな権力を象徴するものとなっていた。邸宅の中で繰り広げられる愛憎に絡んだ嘘と駆け引きの数々、抑えられない自分の激情に抑えきれず第四夫人はついに神経を病んでしまうという話だ。今の時代ではゾッとするような話ではあるが、「大院」をステージとして描く監督のチャン・イーモウ独特の美しい映像に魅せられてしまった。

当時の中国は、豪商でなくても妾がいたのが当たり前の時代、王家大院には果たして何人の妾が住んでいたのだろう。妾たちはこの家から出ることも許されず、屋上にあがり、故郷の空を想ったのだろうか。またこの家にもお仕置きとして閉じ込めておく部屋があり、そこで無念の最期を遂げた妾もいたのだろうか。内装の美しい装飾や中華風ベランダのある華やかな建物にも目を奪われるが、映画『紅夢』の女たちの生きざまが浮かんできて、建物からは見えない悲哀を感じ取ろうとしてしまうのだった。

息子がこのような大邸宅で楽しめるか少し心配だったが、巨大迷路に来たような気分で、「ここでかくれんぼしたら楽しいだろうね」とひたすらあちこちの部屋へ出たり入ったりを繰り返して彼なりに遊んでいた。坂の一番上まで登ると見晴らしの良い場所に主の館があった。建物すべてを見下ろせるこの場所は、下にある建物だけでなく、住んでいる人までを征服したようだ。高いところが好きで気分が良くなった息子は、広い車が通れるようなまっすぐの坂道を一気に駆け下りて行った。

すべて王家大院の建物

確かに王家大院ではゆったりした空間と時間が流れたが、北京へ戻るため空港に向かわねばならない。岩手弁のドライバーのAさんに礼を言い、チェックインカウンターの前で行列に並ぶと一気に現実に引き戻された。荷物は少量なので機内に持ち込むべく手荷物検査の機械を通すと、「ツー!」と突然係員が大声で叫んだ。「ツー」というのは中国語でお酢(醋)のこと。そうだ、平遥で8年ものの黒酢を買っていた! さすがに山西黒酢で有名な地だけあり、空港の係員は機械にバッグを通しただけで液体の中身まで当てた。ちょうど機内への液体の持ち込み制限が厳格になった時期で、ダメもとで直談判してみたが当然聞き入れてもらえず、没収かもう一度行列に並んで荷物を預けなければならない。時間もあまりないので悩んでいたら係員が、「お酢なら向こうにある売店で買えるよ、8年ものも売ってるはず」と言うので、お酢屋さんで瓶から汲みだしてもらったお酢は残念ながら手放し、肩を落して売店へ向かったのだった。

林 秀代(はやし ひでよ)/プロフィール
2005年から2008年まで中国・北京在住。現在神戸在住のフリーライター。北京滞在時より中国の旅や子どもとの生活のエッセイを書いている。http://keiya.cocolog-nifty.com/beijingbluesky/