2.体罰はコミュニケーションの欠損/米国

私が育った1960年代の日本は、経済急成長の影に男尊女卑が色濃く残り、体罰は親や教育者の間で「しつけ」の一環として認められていた。規則を守り勉強をする子供が「偉い」と誉められ、落ちこぼれる子供は「不良」と呼ばれた。「良い...
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私が育った1960年代の日本は、経済急成長の影に男尊女卑が色濃く残り、体罰は親や教育者の間で「しつけ」の一環として認められていた。規則を守り勉強をする子供が「偉い」と誉められ、落ちこぼれる子供は「不良」と呼ばれた。「良い子」になりすましていた私も反抗期を迎え、父親から繰り返し体罰が下った。それは未だに心の傷でしかない。そこには会話さえも無かった。

アメリカでは、「体罰」という言葉は一般的ではない。その度合いにもよるが、体罰は「暴力」とみなされ、犯罪となる。似たような子供のしつけには、「タイムアウト」が適用される。いわゆる反省室のような隔離した部屋かスポットに入れるという方針。その後、子供は何故そこに入れられたか理由を聞かれ、納得した上で解決する。アメリカの子供達は、学校でのびのびと個性を伸ばせる環境がある。そして私もまた、集団社会から自由を求めてアメリカに移住した一人である。

数年前、日本の小学校で英語の授業を受け持つ機会があった。6年生のクラスでは、あまりにも生徒がおとなしいのに驚いた。手を挙げない生徒を名指しで答えを求めた時、先生から注意を受けた。自尊心を傷つけるという理由だった。先生達は、生徒への言葉も気を使わなければ、すぐPTAからクレームがくるという。傷つきやすい生徒と遠慮する教師の間でコミュニケーションは図れるのだろうか? 一方、2年生のクラスでは、積極的に手を挙げイキイキした子ども達の姿を見ることができ嬉しかった。しかし2年生から6年生の4年間の成長過程で子ども達にいったい何が起こっているのだろうか? 個性や自発性はどこにいってしまうのだろうか?

時代を超え、未だに既存する体罰は、コミュニケーションができない教育者のエゴではないだろうかと私は思う。理解しないまま我慢をする子供は、自己嫌悪に落ちていく。子ども達を「正す」には、教育者はもっと個人と向き合うべきではないだろうか。規律正しき集団社会の時代はとっくに終わっているのだから。

関根えり/ プロフィール
ライター、コーディネーター(グルメ&トラベル)
米国、サンフランシスコ在住。1996年にアメリカに移住してから、大学、就職、結婚、離婚とスムーズ?にステップアップしてきた。出版社勤務8年を経てフリーランスに移行。主にフード、トラベルの美味しい仕事ばかりしてきたが、そろそろターニングポイントを迎えている。夢は世界中を旅しながら、グルメ、カルチャー&フォトグラフィーの本を出版する事。