182号/プラド夏樹

園子温の「希望の国」を観に行った。東日本大震災から数年後が舞台。原発事故によって国から避難支持を受ける酪農家一家の話だ。70代の頑固な父はアルツハイマーの妻(原発ゼロをめざすと言いながら忘れてしまう政府の健忘症を象徴して...
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園子温の「希望の国」を観に行った。東日本大震災から数年後が舞台。原発事故によって国から避難支持を受ける酪農家一家の話だ。70代の頑固な父はアルツハイマーの妻(原発ゼロをめざすと言いながら忘れてしまう政府の健忘症を象徴しているのだろうか?)と居残ることを決心し、断固として避難を拒むが、躊躇する息子と妊娠しているその妻には遠くに引っ越しする事を命令する。悲しくなるのがこわくて、観に行くのを躊躇う気持ちもあったが、園氏のインタビューを読んで気を変えた。「ドキュメンタリー形式だと、出てくる人は起こったことを過去形で話さざるをえないし、所詮は他人の話。でも、フィクションを通して、観客は人物の中に入り込んで、合理的でないことも非現実的なことも生の今の体験として生きることができる」というものだ。

文章の場合は少し違うのではないだろうか? 小説でも、エッセイでも、書き手の力量によっては、映像がない分だけ、読者はより自由に感情移入をすることもできるところがおもしろい。編集作業をしながら書き手とやりとりをしていると、掲載されている連載に愛着がわいてくる。子育てについての原稿を読むと、会ったこともないその子どもが愛おしくなり、民家の大改装が終わった話を読めば、一緒に働いた気持ちになる。今回は最終回のエッセイが2本、どうもありがとうございました。

(フランス・パリ在住 プラド夏樹)