第5回 3.11 2013をいわきで迎えて

祖父が他界し、緊急帰国した。
そして3月11日という日を、いわきで迎えることとなった。震災以来、はじめてのことだ。その日、テレビやラジオから流れてくるのは、震災関連のことばかりだった。「もうあれから2年け。早いね」そう言...
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祖父が他界し、緊急帰国した。

そして3月11日という日を、いわきで迎えることとなった。震災以来、はじめてのことだ。その日、テレビやラジオから流れてくるのは、震災関連のことばかりだった。「もうあれから2年け。早いね」そう言いながら涙を浮かべる者もいたが、仕事へ行き、学校へ向かい、みなそれぞれ日常と変わらぬ朝だった。その日は朝からずっとそわそわしていた。そして、震災が発生した”あの時刻”が迫ってくるとともに、心拍数が早くなっていることに気づいた。

2013年3月11日薄磯海岸にて

いわき市主催の式典や、追悼の催しが各地域で予定されていたが、足は当然、薄磯(うすいそ)へ向かっていた。そう、友人が津波の犠牲に遭った場所だ。”あの時刻”の少し前に薄磯海岸に到着すると、もうすでに多くの人びとが集まっており、塔婆の前ではお坊さんがふたり、お経を唱えていた。その後ろには、お線香を手向ける人びとで列ができていた。わたしは、お線香をあげてから砂浜におり、海に向かって祈った。

14:46

黙祷のサイレンがいわき市中に鳴り響く。

心臓がどくんと大きく動くとともに、胸が苦しくなって涙が溢れこぼれおちた。そして、すすり泣く声があちこちから聞こえはじめた。

震災前の豊間海岸

震災後の豊間海岸

もう2年。まだ2年。

時間が経つのは早い。

塩屋崎灯台より震災前の豊間海岸と集落。かつて多くのサーファーで賑わっていた。

県外に避難したいわき市民も多くいる一方、避難を余儀なくされた福島県第一原子力発電所周辺地域の人たちや、原発関連作業員の方々が集まり居住している。約34万人だったいわき市の人口が、いまや3万人増ともいわれている。

奥に見えるのが塩屋崎灯台。被災地視察の観光バスが多くなってきている

震災以来続いているいわき市の”震災バブル”。賃貸物件の空きはなく、飛ぶように売れている土地。飲食店、スーパー、ショッピングセンターは多くの人で埋め尽くされ、スーパーのレジには行列ができる。飲み屋は平日でも賑わいをみせ、タクシーや代行を呼ぶのにも一苦労。病院や歯科医院、公共施設も混雑し、待ち時間も長くなった。今までほとんどなかった交通渋滞も、週末になると目を疑いたくなるほどの渋滞ぶりだ。

いわき市民と避難者との間に生じる軋轢(あつれき)……などといろいろと問題沙汰にされている。被災者を中傷するような落書き、仮設住宅の車が損壊する事件などが起こったからだ。そして放射能の問題は、今でもつきまとっているのだ。

黙祷をささげているいる間、さまざまなことが頭の中で回転し、ぐちゃぐちゃになった。わたしは、震災後はじめて砂浜の上を歩いた。

塩屋崎灯台より震災前の薄磯海岸と集落。快晴のときは福島第二原子力発電所が見える。

薄磯海岸も、塩屋崎灯台を挟んだ反対側の豊間(とよま)海岸も、鳴き砂で有名だったところ。震災で地盤沈下し砂浜も減退したが、”鳴き砂を守る会”がふたたび鳴き砂を確認したそうだ。

「うつくしま ふくしま」は、福島県のキャッチフレーズ。”美しい福島の鳴き砂”を求めて、こんどは砂浜をゆっくりと歩いてみようと思う。

大堀功美子/プロフィール
オーガニックコンシェルジュ/ライター/フォトグラファー/メディアコーディネーター
福島県いわき市小名浜出身、オーストラリア・ゴールドコースト在住。オーガニックコンシェルジュとして五感で愉しめるオーガニックを広めるために、メディアへの出演、新聞や雑誌、ウェブマガジンなどへの寄稿、ワークショップを開催。オーストラリアのデイスパ専属フォトグラファー。