第1回 ポーランドとの出会い

 2014年5月24日、私はポーランド語検定試験のポズナン会場にいた。今年で開始10周年というこの検定試験は、私の学生時代にはなかったものだ。受検できるレベルはB1(中級)、B2(中上級)、C2(最上級)の3つ。約30人...
LINEで送る

2014年5月24日、私はポーランド語検定試験のポズナン会場にいた。今年で開始10周年というこの検定試験は、私の学生時代にはなかったものだ。受検できるレベルはB1(中級)、B2(中上級)、C2(最上級)の3つ。約30人の受検者のうち、C2を受検したのは私だけだった。

私とポーランドのお付き合いが始まったのは、1994年の春のこと。あの日、胸に大きな希望を抱いて憧れの東京外国語大学の門をくぐったことを、今でも昨日のことのように覚えている。あれからもう20年もの月日が流れたなんてとても信じられない。外大で共にポーランド語を勉強した友人が結婚式のスピーチで語ってくれた言葉は、今も心に響いている。

「外大でポーランド語を勉強し始めたあの日から、ポーランドへの運命の道が始まっていたのではないでしょうか」

“運命”という言葉は大きすぎて、重すぎて、ちょっぴり照れくさい気もするが、“ポーランド”に出会ってからこれまでのことを振り返ったとき、本当に運命という目に見えない力に導かれてここまでやってきたのではないかと思わずにはいられない。

19世紀の偉大な詩人アダム・ミツキェヴィチの像(左)と 20世紀に起こったポズナン暴動記念碑はポズナンのシンボル

そもそも、高校3年生で大学の最終志望を決めるときまで、“ポーランド”のことなんて頭の片隅にもなかった。

中学入学後に英語を学び始めて以来、すっかり英語のとりこになった私が、次のステップとして、大学では何か別の外国語を学んでみたいと思うようになったのは自然な流れだっただろう。調べていくうちに、東京外国語大学では他にはない珍しい言語も学べるということも知り、次第に私の頭は外大のことでいっぱいになっていく。だが、どの言語を勉強したいかということは、なかなか決められずにいた。

大学入試センター試験が終わり、正式に志望大学に願書を提出する日が迫っていたある日、私は担任の先生に進路について相談させていただいていた。そのとき何気なく先生がおっしゃった「ポーランドなんていい雰囲気がするけれど、どうだ」という一言がきっかけで、外大のパンフレットを読み返してみることに。そこで目に入ったのが“ピアノの詩人、ショパンが生まれた国”という言葉だった。

私は高校を卒業するまでピアノを習っていた。ピアニストになりたいと思ったことはなかったが、ピアノを練習する中で、私の目標は“ショパンの曲を弾くこと”になり、いつしかショパンは私にとって憧れの存在となっていった。高校生になり、発表会でショパンの『ノクターン第2番9-2』を弾けることになったときは、本当に嬉しかったものだ。

「平原の国」という語源の国名を持つポーランド。車窓からの風景は まさにその名の通り、どこまでも平原が広がる。

ショパンのほかにも、ノーベル賞受賞者のキュリー夫人や地動説を唱えたコペルニクスもポーランド出身であるという。著名人を輩出し、ドイツとロシアという大国に挟まれていながら、日本ではあまり知られていないポーランドという国のことを知ってみたい、ショパンやキュリー夫人が話していたであろうポーランド語がどんなものなのか学んでみたい。願書提出先を東京外国語大学のポーランド語専攻に決めた瞬間だった。同時に今日の私が生まれた瞬間でもあった。

そして今年。日本人であれば、あの日生まれた子どもが成人を迎える年に、何か記念になるものを残しておこうと、ポーランド語検定試験の最上級レベルを受検することを決意。受検から1か月後、結果を知らせるメールが届いた。

― 合格 ―

信じられずに、何度も何度もその短いメールを読み返した。合格したことで私はポーランドで“成人”したように感じた。

今回の連載では、私がポーランドと共に歩んできた20年間を振り返りながら、日本ではまだまだあまり知られていない国であるポーランドの魅力を紹介していきたい。

スプリスガルト友美/プロフィール
ポーランド在住ライター。20歳で成人式を迎えたときは、「やっと大人になった」という気持ちがしたが、ポーランド語の勉強を始めてからの20年は、「もう!?」という驚きでいっぱいに。この節目の年に、私がポーランドと歩んできた20年を振り返り、また初心に返ることができたらと思う。ブログ「poziomkaとポーランドの人々」