第5回 あまり役に立たない日本語

学生時代、医療事務のクラスを取っていたとき。アメリカ人の先生はメキシコ人の夫がいて、英語とスペイン語を自由に操っていた。
「医療業界では、バイリンガルだと就職に有利よ」
と、先生に言われた。患者と良好なコミュニケーション...
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学生時代、医療事務のクラスを取っていたとき。アメリカ人の先生はメキシコ人の夫がいて、英語とスペイン語を自由に操っていた。

「医療業界では、バイリンガルだと就職に有利よ」

と、先生に言われた。患者と良好なコミュニケーションを取り、症状と病歴を的確に聞き出すのは私達の仕事の一部である。症状によっては検査の仕方が変わる。英語を話さない患者には、その人が安心できる言語で尋ねなくてはならない。

ここ南カリフォルニアで役立つ言語といえば、スペイン語、中国語、ベトナム語だろう。最近では、韓国語も入るかもしれない。残念ながら、日本語ができるといって重宝されることは少ない。

郡立病院で臨床検査技師として働いていたときは、スペイン語が出来なければ仕事にならなかった。ヒスパニックの患者は、誰にでもスペイン語で話しかけてくるからだ。一日が終わり、全く英語を話していなかったのに気づくときすらあった。

ほとんど英語ができないアジア系患者の検査を、受付の女性が同じアジア系というだけで私に任せてきた。中国人の患者と漢字での筆談を試みたが、込み入った医療用語や症状など表現できるはずなかった。患者病歴表を見て、限られた英語で確認をした。

モニタリング技師になり二年ほどになる。一度だけ患者と日本語で話したことがあった。82歳の台湾人女性だった。手術を待つ部屋には、患者の義理の娘が横に座っていた。義母は英語を理解せず、軽いが痴呆症を患っているという。すると、彼女が思い出したようにつぶやいた。

「あっ、そうだ! 義母は日本語を話します」

私が質問してみると、なまりのない流暢な日本語が帰って来た。

「あたし転んじゃってねぇ。首の右側が痛いのよ」

しかも、“おばさん”言葉である。彼女の表情がリラックスし、微笑んでいた。

この患者が手術室に入室し、スタッフは手術の準備を始めた。私達が日本語で会話をしているのを聞いて、インド系の麻酔科医が驚いた。

「台湾は日本の植民地でした。この患者さんくらいの年齢なら、日本語を上手に話します」

「子供の頃に覚えた言語を、ちゃんと覚えているんだね」

麻酔科医は感心していた。医師と私は、英国の植民地だったインド人が英語を話すのと、似ていると話した。このおばさんは、手術室で出会った歴史の証人だった。

伊藤葉子(いとう・ようこ)/プロフィール
ロサンゼルス在住ライター兼翻訳者。米国登録脳神経外科術中モニタリング技師、米国登録臨床検査技師(脳波と誘発電位)。訳書に『免疫バイブル』(WAVE出版)がある。