第6回 2つの拠点、ポズナンとグダンスク

2008年4月。ポズナンの空港で私たちを出迎えてくれたのは、私の両親と同じくらい初孫の誕生を心待ちにしていた義母だった。既に安定期に入っていた私の体調を気遣ってくれる義母に感謝しつつ、生まれ育った日本ではなく、ここポーラ...
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2008年4月。ポズナンの空港で私たちを出迎えてくれたのは、私の両親と同じくらい初孫の誕生を心待ちにしていた義母だった。既に安定期に入っていた私の体調を気遣ってくれる義母に感謝しつつ、生まれ育った日本ではなく、ここポーランドで初めての出産を迎えるのだという思いを新たにしていた。

娘が生まれた病院。毎年誕生日に病院の前を訪れては、
出産当時を懐かしく思い出すのが恒例。

実は結婚前、夫にお願いしたことがあった。出産は日本でさせて欲しいと。ポーランドの病院にも、自分の語学力にも不安があったのだ。しかしポーランドで生活するうちに、日本もポーランドもそれほど変わらないと感じるようになっていた。日本長期滞在のちょうど半年ほど前のことだったか、赤ちゃんをなかなか授かれないことを心配した私はポーランドで診断を受け、信頼できる産婦人科医にめぐり合えていたということもあって、私は出産までの残りの日々をその先生に診て頂きたいとも思っていた。

期待と不安の入り混じった毎日は瞬く間に過ぎていく。出産予定日は8月22日。まだまだ大丈夫、と相変わらず朝晩夫と一緒にチラの散歩に行っていたら、最後の妊婦健診で「すぐにでも生まれてきそうだから、せめてあと2週間お腹の中で過ごせるよう、もう少し安静にするように」との注意を受けてしまった。それでも赤ちゃんは、北京オリンピック開会式のにぎやかな音楽に誘われたのか、はたまた一緒にオリンピックを見たいと思ったのか、開会式翌日の午前10時30分、ポズナンの産院で元気な産声を上げた。2008年8月9日のことだった。

このようなことがあって、北京オリンピックは私たち夫婦にとって忘れられない思い出となった。初めての赤ちゃんのお世話でてんてこまいで、開会式以外ほとんど覚えていないという記念すべき(?)オリンピックとなったのだった。

人よりカモメのほうが多い冬のバルト海。
海風のためか、刺すような寒さのポズナンよりも穏やかで暖かく感じた。

初めてのことばかりで、オムツを替えるだけでも四苦八苦していた最初の数か月。夫のサポートのおかげで、育児ノイローゼになることもなく乗り切ることができた。助産師さんの数回にわたる家庭訪問で、母乳の与え方からオムツの替え方、お風呂の入れ方、普段の体のケアの仕方まで丁寧なアドバイスを受けられたのも随分助けになった。生後1か月の頃、洗礼式のために両親が日本から来てくれたときは、本当に精神的に癒されたように思う。夜中、2~3時間毎に赤ちゃんが泣き出し、母乳をあげたりオムツを替えている様子を心配しながらも励ましてくれたことで、気持ちが楽になった。

夫の仕事の都合で住み慣れたポズナンを離れ、2年間グダンスクに住んだのも、今ではよい思い出だ。娘が3歳になったばかりの2011年秋のことだった。グダンスクはバルト海沿岸の港町。引越し先が海まで歩いて5分という場所だったこともあり、親子3人で愛犬チラも一緒によく海岸を散歩したものだ。冬には霜が降りてシャリシャリ音がする海岸を歩いた。冬の海岸を歩くなんてめったにないことなので、夏の海を訪れるのよりも楽しかったのを覚えている。

グダンスク大学で初講義!
心臓の音が頭に響くほど緊張したのを覚えている。

夫の勤務先である国立グダンスク大学には、東アジア研究センター(Centrum Studiów Azji Wschodniej)なるものがある。中国からの留学生が多いこともあり、特に中国、韓国、そして日本についての関心が高い研究者が集まって運営しているとか。専門は政治、経済、法律、歴史、そして柔道など様々。グダンスクに住み始めてすぐの頃、日本文化を専門とする夫が挨拶に行くというので、一緒に行ってみることにした。すると、センター長は“本物の”日本人である私を大歓迎。是非センターの一員となってくれるよういい、あれよあれよという間に夫と共に東アジア研究センターに所属することになってしまった。このことが後に、ポーランドの大学で勉強したいというかつての私の夢を再燃させることになるのだが、そのお話は次回に。

グダンスク大学では、日本でもよく見られる「高齢者大学」も開講されている。東アジア研究センターの一員となった年の冬、思いがけずその授業の一回分を受け持たせてもらうことになった。といっても、90分のうちの前半は夫が日本文化について話し、後半は私が日本語と文字について話すというもの。講義するのは初めてのこと。大勢の前できちんとポーランド語で話せるのかが不安でたまらなかった。だが「案ずるより産むが易し」とはよくいったもので、何日も前から原稿やスライドを作って練習したおかげか、終わってみれば大成功。参加された多くの方々からお褒めの言葉を頂き、なんともいえない嬉しさを味わった。

熱心に講義に耳を傾ける参加者の皆さん。

東アジア研究センターに入った利点はもうひとつあった。当センターが年2回発行している学術誌に、私の原稿も載せてもらえることになったのだ。ポーランド語による初めての小論文のテーマは、『日本におけるポーランド研究について』。夫に校正を手伝ってもらいながら完成した原稿を見て、普段書いている日本語の原稿が仕上がったときとはまた違った達成感を感じていた。

そのままずっとグダンスクに住んでいてもよかったのだが、2011年、娘が5歳になり、幼稚園に入る年にポズナンに戻ってきた。幼稚園、小学校、中学校、とこれから始まる教育環境を考えたとき、夫が生まれ育ったポズナンのほうが、何かとやりやすいとの思いがあったからだ。夫には、ポズナンとグダンスクを行ったり来たりする“半”単身赴任生活を強いてしまって申し訳ないと思ったのだが、実は夫としても、仕事場と生活の場がくっきり分かれていることで、ポズナンを拠点にしたほうが気持ちが安らぐようだった。

こうしてポズナンでの生活を再開した私たち。5年間ほぼ毎日のように朝から晩まで一緒に過ごしてきた娘を、初めて幼稚園という共同社会生活の場に送る日が近づいていた。

国立グダンスク大学・東アジア研究センター(Centrum Studiów Azji Wschodniej, Uniwersytet Gdański)

スプリスガルト友美/プロフィール
ポーランド在住ライター。2年間もグダンスクに住んでいたのに、大学勤務という仕事の性格上、夏休みはポズナンに戻って過ごしていたので、夏の海ではほとんど遊べなかったのが少々心残り。その代わり、嵐の翌日に海岸を歩いて見つけた小さな小さな琥珀のかけらは、グダンスクで暮らした大切な記念の品となった。ブログ「poziomkaとポーランドの人々」http://poziomka.exblog.jp/