第11回 大森雅人 - 野球と幼稚園、教育者としての道 前編

 
リマ市サン・イシドロ区に暮らす大森雅人さん、56歳。小学校からずっと野球一筋の人生を送ってきた彼は、仙台大学体育学部を卒業後、非常勤の野球監督として埼玉の県立高校に着任した。しかしそこで見た教育現場は、大森さんが理想...
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大森さんが懇意にしているカフェにて

リマ市サン・イシドロ区に暮らす大森雅人さん、56歳。小学校からずっと野球一筋の人生を送ってきた彼は、仙台大学体育学部を卒業後、非常勤の野球監督として埼玉の県立高校に着任した。しかしそこで見た教育現場は、大森さんが理想とするそれとは大きくかけ離れたものだった。「母校で大好きな野球を後輩に指導できる」と胸を膨らませていた22歳の青年にとって、数年ぶりに訪れた母校の実態はあまりにも過酷だった。

また、彼自身も指導者として未熟だった。野球監督として甲子園を目指したものの、地区予選2回戦で敗退。全力を出し尽くしたとは到底言えない、不完全な結果だった。「確かに弱いチームだったけど、そういうことじゃないんですよね。空回りしていたのは子供たちじゃなく、自分自身だったんです。監督としての器がなかった。子供たちに申し訳ないと思いました」

そんな時、青年海外協力隊としてコスタリカで野球指導をしてきた先輩の言葉を思い出した。「向うの子は貧しいけど、みんな目がキラキラしていて純粋だぞ」「お前らの指導をきっとどこかで待っているぞ」学生時代に聞いたその体験談は、強烈な記憶となって大森さんの中に残っていたのだ。「海外で経験を積んでから、先生になるという手もあるぞ?」ともアドバイスされていたが、当時は就職を優先。その結果がこれだとも思った。

だがもう迷いはない。非常勤講師の職を辞し、すぐさま国際協力機構(JICA)の試験を受けた大森さんは、1984年1月、青年海外協力隊のボランティアとしてペルーの土を踏んだ。JICAがペルーに派遣した初めての野球隊員だった。

その頃ペルーには野球連盟もあったし、ナショナルベースボールチームもあったが、それらを率いていたのはリマに暮らす裕福な日系人たちで、一般のペルー人は野球の“や”の字も知らない人がほとんど。南米ペルーでスポーツと言えばやはりサッカーなのだ。

大森さんは着任早々、当時ペルー野球連盟の会長を務めていたヘラルド丸井さんに、こう切り出された。「日系人子孫には、ある程度野球は根付いている。だからこそ君には、野球というスポーツをペルー全土に普及してもらいたい」。それはすなわち、リマ郊外の貧困地区での活動を意味していた。「これはありがたい、自分の理想だと思いましたね。指導どころか“普及”という、いわばゼロからスタートできるんですから。治安とか怖くなかったかって? いや、全然。自分も若かったし、そもそも襲われるような恰好なんてしてなかったからね」

貧しさから靴も買えずビーチサンダルで通ってくるような子供を相手に、日々奮闘する大森さん。サッカーのレギュラーになれず不貞腐れていた少年が、野球という聞いたこともないスポーツに初めて触れ、バットを振ることを純粋に楽しんだ。まさに「貧しいけれど、目がキラキラした子供たち」と一緒に過ごした夢のような2年間だった。

大森さんは「ペルーでもう少しがんばりたい」と、JICAに任期延長を申請した。その熱意が認められ、3年目からはペルー・ナショナルチーム監督としての職責が与えられた。1987年8月に日本で開催された「世界少年野球大会」に、若き大森監督率いるペルーのチームがエントリー。参加16か国中4位という輝かしい成績を収めた。

「一介の若造がナショナルチームを指導するという、日本では絶対味わえない魅力に憑りつかれました」大会終了後に本帰国した大森さんは、すぐさま公益社団法人・少年軟式野球国際交流協会に向かった。ペルーとの縁を失いたくなかったのだ。当時の日本はまさにバブル絶頂期、国際交流や寄付が盛んだったことも幸いし、協会の派遣コーチという立場を得た大森さんは、その年の10月再びリマに舞い戻る。

※「グラシアス・ペルー ~海を越えたキャッチボール~」

しかし協会からの支援は僅かで、金銭的な余裕はまったくなかった。親からの仕送りを頼りに、日系人宅に居候するという生活が続いたが、そんなことは20代の彼にとってなんの障害にもならなかった。後任の野球隊員と毎晩のように「次は世界大会上位だ、その次はオリンピックだ!」と夢を語り合う、まさに“野球バカ”を地で行く若者だった。

またそのころには、ペルー人女性との交際も始まっていた。大学で幼児教育を学ぶかたわら、ソフトボールのセレクションチームで投手として活躍していたパトリシアさんだ。彼女も子供たちにソフトボールを教えるなど、大森さんとの共通点が多かった。スポーツを指導する楽しさ、難しさを分かち合える2人が、夫婦という形に落ち着くのは自然の成り行きだったのかも知れない。1989年、二人はめでたく結婚。その直後、大森さんは現実と向き合うことになる。

「俺はアホだ。野球じゃ家族を養っていけない」

※「グラシアス・ペルー ~海を越えたキャッチボール~」(2004年“ペルー野球を支援する会” 編)。大森さんを始め、ペルー野球に深く関わった男たちの熱い思いが詰まった貴重な一冊。あとがきは、彼らが「師」と仰ぐ佐藤道輔監督による。

原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール
ペルー・リマ在住フリーランスライター: 2006年来秘、フリーライターとしてペルーの観光情報を中心に文化や歴史、グルメ、エコ、ペルーの習慣や日常などを様々な視点から紹介。『地球の歩き方』ペルー編・エクアドル編、『今こんな旅がしてみたい(地球の歩き方MOOK)』ペルー編、『トリコガイド』ペルー編、共著『値段から世界が見える!日本よりこんなに安い国、高い国』ペルー編、『世界のじゃがいも料理』ペルー編取材・写真撮影など。ウェブサイト:www.keikoharada.com