第7回  浦上

 
夏の長崎は抜けるような青空が多くなる。暑さはあるが、東京のうだるような都市熱とは違い、坂道から海の方へ空気が流れて淀みがない。休暇で大勢の旅行者が訪れる中、長崎駅から路面電車に乗り、浦上方面を目指す。浦上をさるくとき...
LINEで送る

現在の浦上教会(浦上天主堂)

夏の長崎は抜けるような青空が多くなる。暑さはあるが、東京のうだるような都市熱とは違い、坂道から海の方へ空気が流れて淀みがない。休暇で大勢の旅行者が訪れる中、長崎駅から路面電車に乗り、浦上方面を目指す。浦上をさるくときはいつも、その歴史の重さに緊張してしまう自分がいる。浦上についてこれまで読んだ本、浦上出身の方々から聞いた話、浦上に起こった多くの出来事。たとえ通りすがりの旅人であっても、その歴史を少しでも知るのと知らないのとでは、目に映る景色が何もかも違って見えるのだと思う。

日本初のキリシタン大名、大村純忠の甥にあたる有馬晴信は、1584年に浦上をイエズス会に寄進する。キリシタンの拠点となった浦上は、禁教下でも多くの信徒が潜伏して250年も信仰を守る。神父も教会もない中、帳方、水方、聞役という独自の役職を作り、バスチャンの暦に従って儀式を行い、7代経てばキリシタンが自由になるという予言を信じてその日を待ち続ける。果たせるかな、潜伏7代後に日本は開国、長崎居留地に大浦天主堂が建てられる。浦上の潜伏キリシタンたちは大浦天主堂をこの目で見ようと訪れ、神父に自らの信仰を告白する。1865年3月17日、「信徒発見」と呼ばれる出来事であった。(大浦天主堂は第4回「居留地」バスチャンは第5回「外海(そとめ)」を参照)

浦上天主堂の由来と歴史の銘板

「信徒発見」は宗教史上の奇跡として世界を驚かせた。居留地の大浦天主堂は外国人向けに建てられた教会で、日本のキリシタンは激しい弾圧で既に滅んだかと思われていたのに、250年も潜伏した信徒をここで発見したのである。訪ねてきた浦上キリシタンのイザベリナ(杉本)ゆり、という女性の話は有名で、大浦天主堂のプチジャン神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(我々の信仰はあなたのものと同じ)」、「サンタマリアの御像はどこ?」と尋ねたという。(居留地の大浦天主堂をさるくと、この話を詳しく聞くことができる)

落下した鐘楼

なお、開国後の長崎にはプロテスタントなどカトリック以外のキリスト教も入ってきたが、浦上の潜伏キリシタンがカトリック教会を探しあてたことは興味深い。浦上ではマリア崇拝、独身の神父、ローマ教皇の3つのキーワードが合致すれば我々の信仰と同じ、と代々伝えていたので、上記のゆりさんの言葉があったらしい。長い潜伏でキリシタンの様式は本来のカトリックから変容していたが、信徒発見以降、浦上キリシタンはカトリックに復活して信仰表明する。(一方、潜伏時の独自の信仰様式を継承する人々も少数だが長崎各地に現存し、これを「カクレキリシタン」とカタカナ表記してカトリックに戻った「潜伏キリシタン」「隠れ(かくれ)キリシタン」とは区別される)

やがて信仰を表明した浦上信徒の中に寺請制度による仏式の葬儀を拒否するものが出た。浦上の民家を秘密教会として大浦の神父を招き極秘に礼拝を行った彼らは、開国後も禁教を続ける幕府、明治政府から大迫害を受ける。数年に及ぶ「浦上四番崩れ」である。「崩れ」とは弾圧によるキリシタン検挙を指し、浦上では一番から四番まで4回あり、四番崩れが最大であった。浦上信徒は捕縛され、牢に繋がれ、さらに津和野、萩、福山、鹿児島、金沢など全国各地へ約3,400名が配流、うち660名以上が劣悪な環境や過酷極まる拷問で亡くなる。これに対する欧米各国の非難は激しく、日本政府は遂にキリスト教信仰の自由を認める。

爆風で欠けた聖人像

生き延びた信徒は浦上に帰還したが、その後も貧困と差別は続き、平たんな道のりではなかった。信徒たちは浦上四番崩れによる配流を巡礼のように「旅」と呼ぶ。数年間の「旅」から戻った信徒たちは、信仰の自由を喜び、苦しい生活の中から資金、資材、人材を集め、工面して浦上に自分たちの教会を建てた。着工から20年、1914年に完成したのが旧・浦上天主堂である。東洋一の規模といわれたレンガ造りの美しい聖堂だったが、残念ながら写真でしか見ることができない。苦難の果てにできた天主堂は1945年8月9日11時2分、浦上上空から落とされた原子爆弾の直撃を受け、壊滅する。浦上は灼熱の炎に焼かれ、多くの建造物が破壊、人々の命と生活は一瞬で奪われた。浦上信徒約12,000人のうち約8,500人が爆死したという。想像を超える地獄。天主堂の左の鐘楼は地上に吹き飛ばされ、現在もその姿で保存されている。

旧浦上天主堂遺構(爆心地公園に移設)

被爆した天主堂はあまりに被害が大きく、戦後13年経って撤去される。一部のみ爆心地公園に移設されているが、壊滅した天主堂を被爆遺構としてそのまま残すべきだったという声をしばしば聞く。天主堂は浦上教会として1959年に再建され、日本で信徒数最大のカトリック教会となっている。今も響くアンゼラス(アンジェラス)の鐘は、被爆して瓦礫に埋まっていたのを奇跡的に無傷のまま浦上の人々が掘り返した。教会の外に浦上四番崩れで使われた拷問石があり、爆風で首が吹き飛ばされた聖人像が建つ。教会内には被爆マリア像の頭部が展示されている。百聞は一見に如かず、原爆の恐ろしさは筆舌に尽くしがたく、実際に見ることでその脅威を感じ取って欲しい。

浦上教会からサントス通りと呼ばれる坂道を南下すると「如己堂」(にょこどう)がある。旧長崎医大の教授で敬虔なカトリック信徒の永井隆博士の晩年の住居で、隣接してその記念館がある。原爆で妻を失い、自らも被爆し、病と闘いながら博士は多くの著書を残し、戦争反対と平和を訴え続けた。博士は爆心地浦上からほど近い2つの小学校に桜を贈った。山里小学校と城山小学校である。どちらの学区でも9割近くの児童が亡くなり、敷地の中に被爆の遺構が保存され、原爆と戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝えている。見学には事前申し込みが必要だが、機会があればぜひ浦上さるきの際に訪れていただきたい。

(参考)
浦上小教区沿革史信徒発見浦上四番崩れ日本のカトリック教会の歴史:最後の迫害浦上天主堂カトリック浦上教会浦上教会(長崎県)浦上教会(長崎市)被爆マリアアンゼラス(アンジェラス)の鐘永井隆博士「己の如く人を愛したひと」永井隆如己堂(にょこどう)・永井隆記念館山里小学校城山小学校

えふなおこ(Naoko F)/プロフィール
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。