第3回 自他共栄―柔道でつなぐ日本とペルー―前編

今回の「【インタビュー】きいてみました」は、ペルーのリマ市にある柔道クラブ「共栄館」で、地元の子供たちに柔道を教える浦田太さんへのインタビュー。浦田さんは2011年、国際協力機構(JICA)青年海外協力隊の“柔道指導ボランティア”として来秘し、任期を終えて本帰国した後、自身の夢を叶えるため再びペルーの地を踏んだ。柔道との出会いから現在、そして将来の夢まで、柔道一筋の人生について話を伺った。

浦田太さん

浦田太さんのプロフィール
1970年:福岡県生まれ。小学4年生から柔道を習い始め、中学高校時代は強豪校の柔道部員として活動。
1989年3月:私立大牟田高校を卒業後、航空自衛隊に就職。一年のブランクを経て、市民プレーヤーとして柔道を再開。
2005年4月:奈良県・航空自衛隊幹部候補生校に柔道助教として着任。指導者としてのやりがいと喜びを感じるようになる。
2011年6月:JICAの柔道指導員としてペルー・ピウラ州に着任。
2013年6月:任期を終えて本帰国。ペルーへ戻るべく準備を始める。
2017年6月30日:自衛隊を退職。
2017年8月:再び来秘。リマの私立学校に柔道教師として就職するかたわら、「共栄館」を立ち上げ現在に至る。

 ▼柔道を始めたきっかけは?

私は子供のころから目が悪くて、7歳の時に医者から「将来、もしかしたら失明するかもしれない」と言われたんだそうです。それで親が『もし失明しても何か続けられる生きがいを』と、武道を習わせることにしました。空手と剣道はちょっと合わなかったんですが、柔道はなぜか気に入って。隣町の柔道クラブで、たしか80歳くらいのおじいちゃん先生だったかと思いますが、馬が合ったんでしょうね。それが10歳、そこからずっと柔道一筋です。ちなみに今も目は悪いですが、問題ありませんよ。

 ▼中高時代も柔道を?

当時、柔道部が強かった福岡市立花畑中学に入学しました。部の先輩にはプロレスラーの佐々木健介さんや、大相撲の貴闘力関なんかもいます。その後、私立大牟田高校に特待生として入学。でも私がいた時代より、今のほうがもっと強いようですけどね。

中高の6年間、いわゆる強豪校でそれなりの稽古量をこなし、そこそこの成績を収めてきました。とはいえ私は選手として突出していたわけではなく、特に高校時代はどちらかというと落ちこぼれていました。

 ▼柔道選手としてのジレンマは?

ありましたよ。実は高校卒業時、石川県にある北信越柔整専門学校に内定を頂いていたんです。そこだと、柔道整復師の資格が取得できるんですよね。でも柔道推薦という形だったので、入学後も柔道を続けなければなりませんでした。ただその時は柔道をやりつくした感があったし、柔道から逃げたい気持ちでした。

そんな時、たまたま校内で自衛隊の面接試験があったんです。その面接を受けたら授業に出なくていいと聞いたので、興味本位で受けてみました。そうしたら「キミ、体格良いね!部活はなんだったの?」と。柔道部で、専門学校に内定が決まっていると話したら、「自衛隊なら、給料をもらいながら柔道整復師の資格が取れるよ!」と強烈に勧誘されて、それで入隊を決めたんです。でも実際には、そんな資格はまず取れないんですよ。当時はバブルで、勧誘する側も口八丁だったんです(笑)。

 ▼入隊後、柔道はやめてしまったんですか?

私は電気員(いわゆる電気工事士)として、宮崎県の航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地に配属となりました。そこには宮崎県の高校柔道でトップだった、都城商業高校のOBたちが働いていて、その先輩たちに基地の柔道チームに入れと勧誘されました。もう柔道はお腹いっぱいという感じだったので、ずっと拒み続けていたんです。でもまあ職場の人間関係もあり、それも限界で。それで1年のブランクの後、新田原基地チームの一員として宮崎の県民大会に参加しました。

 ▼久しぶりの試合はいかがでしたか?

いやー、本当に楽しかったですね。ガチガチの高校時代とは違う、社会人としての解放感もあって。それから市民プレーヤーとして、改めて柔道の世界へと戻っていったんです。中高でしっかりやっていたので、大会での成績もまずまずでしたし、終わった後は思いっきり酒を飲む。成績で一喜一憂するのではなく、素直に楽しめました。

▼いつから指導者の側に?

宮崎、福岡、鹿児島と転勤した後、2005年に奈良に配属になりました。ここにある航空自衛隊幹部候補生校で、柔道助教として着任したんです。生徒指導のかたわら、柔道の歴史などを一から勉強しなおしました。“柔道の父”と言われる嘉納治五郎先生のすごさを改めて知ったり……。

競技者としての芽は出なかった私ですが、指導者として何かできることがあるのではと思うようになりました。生徒たちをもっとうまく導くには、どうすればよいか。そんな思いで悶々としている時に、近鉄電車の中吊りにあったJICAの青年海外協力隊募集の広告が目に入ったんです。

 ▼それがペルーに来るきっかけになったと。

はい、当時39歳だった私は、次の受験が青年としてのカテゴリーとしてはラストチャンスでした。だから結果はさておき、まずは受けてみようと。自分が今どういう位置にいるのか確かめようと思いました。そしたら受かった。それで上司に退職を申し出たところ、自衛隊には休職制度があるとのことで、それを利用して青年海外協力隊に参加しました。それが2011年6月、40歳を迎える直前でした。

★ペルー時代の活躍については、講道館HP:青年海外協力隊奮闘記をぜひご覧ください。 

 ▼JICA任期中にはすでにペルーへ戻るつもりでいた?

海外の子供に柔道を教えることに喜びを感じていたので、またいつかは海外でという気持ちはありました。ペルー以外の外国を知らない私にとって、それはイコール、ペルーだったんですけどね。自衛官の定年は54歳なのでその後とも考えましたが、私がやろうとしていることはとにかく体力が必要なので、元気なうちでなきゃと。それで決断して、2017年8月にペルーに戻ってきたんです。

こうして再びペルーに帰ってきた浦田さん。少年時代から一貫して柔道一筋の人生を歩んできたわけだが、それが海外での活動につながるとは夢にも思っていなかっただろう。後編では、自身のクラブ立ち上げに至る経緯と現在の活動、これからの目標などについて話を伺う予定だ。

原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール
ペルー・リマ在住フリーランスライター: 2006年来秘、フリーライターとしてペルーの観光情報を中心に文化や歴史、グルメ、エコ、ペルーの習慣や日常などを様々な視点から紹介。『地球の歩き方』ペルー編・エクアドル編、『今こんな旅がしてみたい(地球の歩き方MOOK)』ペルー編、『トリコガイド』ペルー編、共著『値段から世界が見える!日本よりこんなに安い国、高い国』ペルー編、『世界のじゃがいも料理』ペルー編取材・写真撮影など。ウェブサイト:www.keikoharada.com