163号/林秀代

スティーブ・ジョブズが亡くなり、スタンフォード大学でのスピーチの動画がインターネットで世界中をかけめぐり、日本でも特に最後の部分の「Stay hungry, stay foolish」について、その意味や訳し方の議論も起きた。もちろん言葉の意味を理解できなければ、その哲学を知ることはできない。ジョブズが言いたかったのは、「自分の信じるものに向かって突っ走れ」ということだろう。今の日本には「hungry」も「foolish」も遠い言葉なのかもしれない。

大学を入学から半年で家庭の経済的事情で退学したジョブズだったが、スピーチを聴きながら、私は高校3年の進路を決めた時のことを思い出していた。当時の女子の進学といえば就職に有利だった短大だったが、私は4年制大学に行って学士の学位を取りたかった。しかし何度頼んでも父は短大進学しか許さず、スポンサーの許可が降りないことには、4年制大学の受験をあきらめざるを得なかった。わずか30年ほど前の話だが、「就職もできないのに女に高い学問は不要」という考えは父だけでなく、世間に存在していた。

進学した短大は4年制の美術学部と併設されており、一般教養は美術学部と共に受講する。リベラルな学風に加え個性的な教員や学生が多く、考えていた以上に毎日が新鮮で楽しかった。私は熱心に講義へ通い、卒業式では卒業生代表としてスピーチもした。さらにもう1年自分で学費を出して同じ短大の専攻科に進んだが、それが私にできる限界だった。気がつけば男女雇用機会均等法が施行されて就職事情は変わりつつあった。私が卒業した短大はやがて4年制になった。

父を説得できず、時代の変化を横目で見がらも結局学士の学位がないことは、今も時々私の頭をめぐり悶々とすることがある。でも苦難との戦いだったジョブズのスピーチを聴いて、思い通りの環境でなくても、自分なりにベストを尽くしたことに気づいた。いつも明るい道を走れるわけではないだろうが、暗い砂利道の中でもひとつの光が見えたら、その方向に自分のできる限り走り抜く。これからも走るのだ。

(神戸在住・林 秀代)