文:たき ゆき(ドイツ・キール在住)

幼稚園に次女を迎えに行ったら、先生から「話しておかなきゃいけないことがあるの」といつになく真面目な顔で言われたので「これはまた、何かしでかしたかな?」とひやひやしながら話を聞いた。親友の男の子が娘の太ももを噛んだのだそうだ。娘が、火がついたように泣いたので、痛がっているところを調べたら、くっきりと歯形がついていたのだという。まず、娘がだれかを傷つけたのではないことにほっとし、大したことではないこともわかったので、「このこと、男の子の親は知っている?」とそれとなく尋ねた。「もちろん!こういうことはすぐに知らせるのが私たちの義務よ」という答えが返ってきた。ここでわいたひとつの疑問。「あの子のママ、どうして何も言わなかったのかな?」だって、男の子とその母親とは、今さっき園の門のところですれ違って挨拶をかわしたばかりだったから。

なんだかしっくりこないこの気持ちはなんだろう。大怪我をしたわけでもないから、謝ってもらいたかったのではない。ただ、反対の立場なら「大丈夫だった? これから気をつけるね」と一声かけるのになぁ、と思っただけである。それが常識だという理解が私にはあるから。でも海外で暮らす身にとって、この「常識」という言葉は特にやっかいだ。自分が普通と思っていることでもこの国の文化や習慣にてらしたら普通ではないということがままにある。こんなとき同じように子育てをするドイツ人の友人たちの存在はありがたい。それとなく何人かに聞いてみた。

「黙っているのはね、訴えられたり、慰謝料を請求されたりするのが怖いからよ~。最近じゃ、ちょっと殴られたりしただけでも、病院に連れて行って診察料を相手の親に請求する人がいるんだから。そういうときのために、みんな子どものしたことも対象になる損害保険にはいっているんじゃない」と、友人のひとりは言った。確かに、家(うち)もそんな損害保険に加入してはいるが、それは誤って何かを壊してしまったり、大怪我をさせてしまったりの場合を考えてのことだ。幼稚園で日常茶飯事起きる喧嘩を想定して保険に入っているわけではない。ドイツでも日常の瑣末な問題でさえもが、お互いの信頼関係によってでなく、金銭によってクールかつクリアに解決される時代に入っているのか、と少しさみしいような、そしてなぜか恐ろしいような気持ちになった。

もうひとりの友人は「親自身がびっくりしちゃってるんじゃない? 自分の子が人を噛むなんて思ってもみなかったのよ。Aちゃんのとこなんか、一度他の子を噛んだってだけで親がおろおろして、すぐ子ども向けの心理セラピーに連れて行ったのよ」と答えた。

噛んだり噛まれたりすることは、そんなに特別で大騒ぎしなければならないことなのか。個人的には、噛むという行為は、自分の感情をまだきちんと言葉で表現できない年齢の子どもたちがとる怒りの表現だったり、喧嘩での防衛手段だったりするのだと理解しているのだが……。小さいうちは、痛い思いをさせたり、させられたりしながら、ひとを傷つけてはいけないことを学ぶのではないだろうか。

最近はドイツでも、子どもが失敗することを大人たちが未然に防いでいるような気がする。危ない遊びは絶対させない、喧嘩をはじめたら取っ組み合いになる前にすぐ仲裁に入る。子どもが遊んでいる間、審判のようにずっと目を離さない親も多い。もちろん、誰も傷つかないほうがいいし、何も起こらないほうが良いに決まっている。でも、ほんとうの痛みや怖さを知らないで、どうして子どもたちが「気をつける」ということを学んでいくのだろう。

次女と親友の男の子は、それからももちろんけろっとして仲良く一緒に遊んでいる。でも男の子の母親とは、挨拶はかわすものの、なんとなくぎくしゃくしている。以前のようにこちらが話しかけても、なんとなくよそよそしいのだ。お互いにとっかかりとタイミングを失ってしまったために雰囲気が悪くなる、というよくあるパターンだ。この状況は避けたかったんだけどなぁ、と私がぼやいていると、友人たちは、気が咎めているからうまく対応できないだけ、ほっておくしかない、と言う。幸いドイツにも「時が解決してくれる」という言葉がある。いつかはまた普通に話ができるときも来るだろう。所詮、幼稚園は子どもの世界。子ども同士が仲良く楽しくしていればそれで良い、とひとまず考えておこうかな。

≪たき ゆき/プロフィール≫
レポート・翻訳・日本語教育を行う。1999年よりドイツ在住。ドイツの社会面から教育・食文化までレポート。ドイツ人の夫、8歳の長男、6歳の長女、3歳の次女とともにドイツ北部キール近郊の村に住む。