第2回 日の丸を継ぐ者

「これ、読めますか?」と手渡された一冊の古い本。表紙には「尋常小学修身書 児童用」と書かれていた。表紙をめくると、明治天皇の「教育勅語」が見開きで掲載されている。複雑な旧字体、漢字とカタカナを併用した戦前の文書。私が見慣れぬ漢字に戸惑っていると、本の持ち主である男性は、助け舟を出すかのように流暢な日本語で暗唱し始めた。その朗々たる声には、日本人としての強い誇りが感じられる。その男性はフアン・アザマさん、62歳。沖縄の血を引く、ペルー生まれの日系三世だ。

1939年、第二次世界大戦が勃発。ペルーでは1942年の対日宣戦布告と同時に、まず日本人の集会と日本語の使用が禁止された。ペルー各地にあった日本人学校は相次いで閉鎖、日本語新聞の発行も止められてしまう。日本語禁止令は終戦2年後の1947年6月に解除されたが、当地で連綿と続いていた日本語教育は完全に寸断されてしまった。ペルーの日系人があまり日本語を話せないのは、こうした歴史によるところが大きい。

日本語による情報が極端に不足していたせいだろうか、ペルーでは、敗戦を認めず日本はアメリカに勝ったと信じて疑わない「勝ち組」が現れた。一方、早々に日本の敗北を受け入れ、この地でペルー人として生きていく決意をした「負け組」も生まれた。両者は激しく対立したが、幸いブラジルのような悲惨な事件(※)にまでは至らずに済んだという。「すべてを失った中で、日本人同士が睨みあっている余裕なんかなかった。みんな、生きていくのに必死だったんです。」フアンさんは静かにそう語った。

戦後の混沌とした時代の中、アザマ家の長男として生まれたフアンさんは、熱心な勝ち組であった祖父から戦前の教育を受けて育った。その手本となったのが、前述の尋常小学校の教科書だ。勝ち組組織が当時運営していた寺子屋で、彼は日本語と日本臣民としての心構え(修身/道徳)を叩きこまれた。加えて、祖父母との会話を通じウチナーグチ(沖縄方言)と沖縄の伝統文化も学んでいく。沖縄移民が7割を占めるというペルー日系人社会で、フアンさんは今では数少なくなってしまった一世とそれ以降の世代を結ぶ貴重な存在となっている。

敬虔なカトリック信者でもあるフアンさん宅の玄関先には、イエス・キリストの肖像画が飾られている。しかし家の中心に置かれているのは、祖先の位牌を納めた沖縄様式の立派な仏壇だ。また壁には亡き祖父母の遺影と家紋も掲げられており、外出時や帰宅時には、キリストの肖像画だけでなく先祖の位牌と遺影にも必ず手を合わせ、その日あったことを報告するという。「確かに今私はカトリック信者ですが、でも基本は神道なんです」というフアンさんの心には、祖先を崇拝し、かつあらゆることを柔軟に受け入れる沖縄のチャンプルー文化が確かに受け継がれている。

※「臣道連盟事件」…ブラジルで勝ち組が負け組の暗殺を繰り返した事件。フアンさんの母親曰く「ブラジルの勝ち組は、負け組の人にわざわざ予告状を送ってから殺したんだよ」とのこと。日系社会の負の側面として長くタブー視されてきたが、2011年に「Corações Sujos (邦題:  汚れた心)」としてブラジルで映画化された。

原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール
ペルー・リマ在住フリーランスライター。張りのある声と周囲を盛り上げる明るい性格で、日系社会のイベントには欠かせない存在のフアンさん。取材に伺ったこの日も、翌日の司会を依頼する電話が突然入ってきた。私が「急に言われても困りますね」と言うと、「ほんと、どうしてみんな前もって頼めないのかねぇ」と苦笑いしながらも、日程の調整に努めていた。日頃から「周囲の皆さんに恩返しをしていきたい」というフアンさんらしいひとコマだった。
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