静岡県富士市出身の深澤さん(68歳)。
2013年ペルー政府より功労賞受賞、またペルー静岡県人会会長として、積極的に日秘双方の交流を進めている。
ペルーの首都リマで、本格的な日本料理を提供する「レストラン・フジ」のオーナー、深澤宗昭さん(68歳)。1973年10月30日に妻・悦子さんと3歳の娘を伴い来秘、以来40年以上も異国の地で日本伝統の味を伝え続けている。
実家が割烹旅館だったという深澤さんは、20代にはすでに店を一軒任されるほど商いの経験が豊富だった。また親戚が外国での事業に成功していたこともあり、常々自分も海外へ出てみたいと思っていたという。そんな時、リマで暮らした経験のある悦子さんに、ペルー行きを薦められたのがきっかけとなった。
1960年代から70年代にかけては、ちょうど日本企業の海外進出が活発だった時代。また1973年は、1ドル360円の固定為替相場が変動相場制に変わった年でもある。時流を掴む才。商売を成功させる上で必要不可欠な才能だ。
深澤さんの経験談は、どれもスケールが大きく驚かされる。例えば、「ペルーに和の食材や皿なんかないだろう」と考え、向う2年分、およそ4トンもの食材や食器を持ってきたそうだ。それこそインターネットなどない時代、地球の反対側へ行くのに、最初からこんな大胆な投資ができる人物はそういないだろう。
「フジ」の暖簾をくぐると、威勢のいい「いらっしゃいませ」の挨拶が迎えてくれる。
しかし、深澤さんは笑いながらこう言った。「当時のペルーってのは海外製品の輸入は禁止でね。でもこっちもそんなことは知らないから、税関を通すのにそりゃ苦労したよ」ぐだぐだ考えるよりまずはやってみよう、という何とも豪胆な性格の持ち主だ。
1974年4月1日、リマ市ヘスス・マリア区に故郷の名を冠した「レストラン・フジ」をオープン。当時リマに日本料理店はいくつかあったが、日本人板前が腕を振るうのはフジを含めて2軒しかなく、ペルーで本格的な和食の味を求める日本の駐在員にとって、深澤さんの店はすぐに欠かせない存在となった。昔は日本企業の数も多く、深澤さんは「あの頃は今の3倍、120社くらいはあったね」と当時を懐かしむ。
静岡の実家を継ぐつもりで、ペルー滞在はもともと2~3年の予定だったと語る深澤さん。「ではなぜ日本に戻らなかったんですか?」と訊ねると、「なぜって、あいつ(悦子さん)が俺に黙って勝手に土地を買ってきちゃったんだよ!」と言うではないか。リマ新市街のミラフローレス区に、夫に内緒でおよそ180坪の土地を購入していたという悦子さん。理由を問いただすと、「子供を育てるなら、日本よりここの方がいい」と答えたそうだ。リマで第二子を出産していた悦子さんにとって、ペルーはすでに第二の故郷となっていたのだ。
彼女の気持ちを汲んだ深澤さんは、腹を決める。1976年9月、悦子さんが購入した土地に現在のレストランを新築し、ヘスス・マリア区から店舗を移転。和食の伝統を今日まで守り続けている。
焼酎好きの深澤さんは、ブドウ農園と提携してフジ・オリジナルのピスコ酒(ブドウの蒸留酒)を開発。
葡萄の古木を選んで造らせるこだわりのピスコは、お湯割りにもぴったり。
定休日や元旦といった特別な日を除き、常に暖簾を掲げてきた「レストラン・フジ」。だが、一度だけ数週間の休業を余儀なくされたことがある。1980年から2000年にかけてペルー全土を恐怖に陥れたテロの時代だ。
アンデス山岳地帯、アヤクーチョの農村で蜂起したテロ組織「センデロ・ルミノソ」は、1980年代前半首都リマに侵攻。1985年前後は毎日市内のどこかで「コチェ・ボンバ」と呼ばれる自動車爆弾が炸裂していた。身代金目的の誘拐も多発し、深澤さんも自家用車を防弾仕様に改造していたという。
社会が疲弊する中、日系ペルー人大統領のアルベルト・フジモリ率いる政権が発足。彼がテロとの戦いを表明した1990年以降は、在住日本人もまたテロリストの標的に加えられる。1991年7月には、国際協力事業団(JICA)の日本人農業技術専門家3人が殺害される事件が起こった。多くの日本企業がペルーから撤退し、駐在員も潮が引くようにリマを離れていった。
そんな矢先、「レストラン・フジ」が襲撃された。
≪原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール≫
ペルー・リマ在住フリーランスライター: 2006年来秘、フリーライターとしてペルーの観光情報を中心に文化や歴史、グルメ、エコ、ペルーの習慣や日常などを様々な視点から紹介。『地球の歩き方』ペルー編・エクアドル編、『今こんな旅がしてみたい(地球の歩き方MOOK)』ペルー編、共著『値段から世界が見える!日本よりこんなに安い国、高い国』ペルー編、『世界のじゃがいも料理』ペルー編取材・写真撮影など。
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