第6回  「レストラン・フジ」暖簾を守り続けて40年 後編

1980年に始まったペルーのテロ。恐怖と悲しみを生んだ時代として、今も人々の心に深く刻まれている。1990年7月に大統領就任を果たした日系ペルー人のフジモリ氏は、テロリズムとの全面交戦を宣言。以降、日系人や在住日本人もテロの標的にされた。

1992年某月午後9時。営業中の「レストラン・フジ」に突然爆音が響き、黒煙が店を包んだ。玄関先に仕掛けられた5キロ爆弾が爆発し、店舗正面が大破したのだ。周囲の建物の窓ガラスは吹き飛び、地面には大穴が空いたという。死傷者が出なかったのは不幸中の幸いだが、日本人の命が直接狙われるという大事件だった。

しかし、深澤さんは笑いながら当時を振り返る。「いやぁもう、どーんと吹っ飛んじゃってね。で、すぐ友達のヘネラル(軍の将校)に連絡してさ。そしたら店を修復するまでの数週間、一個小隊でうちを守ってくれたよ」「なんで日本に帰らなかったかって?そりゃテロになんか負けられないよー!そんなの、帰る理由になんかならねぇ」深澤さん、当時46歳。相当肝の据わった人物である。

その後も、「ペルーはね、どんなことでもなんとかなるし、何でも解決できるんだよ」と笑い飛ばし、さまざまなエピソードを語ってくれた。多くの友人と3人の子供に恵まれ、今では順風満帆に暮らす深澤さん。しかし、話が妻・悦子さんにおよんだ時、その視線が一瞬宙をさまよった。

深澤さんをペルーへと導き支え続けてきた悦子さんは、スキルス性胃癌で2005年1月に他界した。2004年の年明けごろから胃の不調を訴え、あらゆる検査を受けたが、リマではその原因が分からなかったという。7月、日本の病院で診断を受けた時にはすでに手遅れで、余命3ヶ月と宣告された。「親戚の結婚式があって、2004年の2月にも一時帰国してたんだよ。ただお祝いの席だったし、時間もなくてね。あの時に検査していればね……」その胸中は察するに余りある。

悦子さんはそのまま日本で長期入院に移行、病床で遠いペルーに思いを馳せる妻の姿に、深澤さんは胸を痛めた。「どんな患者も一瞬病状が落ち着く時がある。その時に帰らなきゃ、もう一生ペルーには戻れないよ」という医者のアドバイスに従い、その僅かなチャンスを狙って悦子さんをペルーに連れ戻した。衰弱した悦子さんが再びペルーに帰ってきたのが、2004年10月30日。偶然にも、30年前に夫婦そろってペルーの大地を踏んだ、まさにその日だった。

来賓たちが帰った後、店のスタッフと一緒に。満面の笑みがその喜びを語っている。

「フジ」の顧客は、その7割が駐在員を中心とする日本人だ。オープン以来、多くの日本人を迎える一方、笑顔で彼らを見送り続けてきた深澤さん。企業の駐在員は、どんなに親しくなってもわずか3、4年でペルーを離れてしまう。後に残る者の宿命とはいえ、「出会いと別れの繰り返しだよね。この年になると、時々寂しいなぁと思うことはあるよ」と打ち明けた。

子供たちと共に、祝いの樽酒に喜びの一打ちを。

しかしその分、再会の喜びはひときわ大きい。リマを訪れた際、再び深澤さんに会いに来る日本人は数多い。中には36年ぶりの再会もあった。当時は研修生だった商社マンがアルゼンチン支店長に栄転、南米に再赴任する途中わざわざリマに立ち寄ってくれたという。「そりゃ立派になっててねぇ。嬉しかったよ」まるで我が子の出世を喜ぶような、満ち足りた微笑みが印象に残っている。

昨年、開店40周年の祝賀セレモニーを大々的に開き、次世代への経営委譲を明言した深澤さん。現在もカウンターを担っているが、すべてを息子に任せたという安堵感は大きいようだ。「日本人だったら、やっぱり日本のものを食べたいだろう?現地化したものじゃなく、本当の故郷の味。それを大切にしていきたいんだ。でも、もう息子の代だから、子供たちの好きなように任せるけどね」今は妻との思い出あふれる家で、孫と遊ぶのが何よりも楽しみだと話してくれた。

原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール
ペルー・リマ在住フリーランスライター: 2006年来秘、フリーライターとしてペルーの観光情報を中心に文化や歴史、グルメ、エコ、ペルーの習慣や日常などを様々な視点から紹介。『地球の歩き方』ペルー編・エクアドル編、『今こんな旅がしてみたい(地球の歩き方MOOK)』ペルー編、共著『値段から世界が見える!日本よりこんなに安い国、高い国』ペルー編、『世界のじゃがいも料理』ペルー編取材・写真撮影など。ウェブサイト:http://www.keikoharada.com/