第3回 殉教の丘


長崎駅から徒歩でゆっくり10分ほど、急な傾斜の続く道を息を弾ませて登り切ると西坂の丘にたどり着く。広々とした青空と吹き抜ける風を感じながら「鶴の港」と謳われる美しい長崎港を見下ろすことができる。港を背にして立つと真正面に見える位置に、キリシタン殉教者26人の等身大ブロンズ像がずらりと並んだレリーフの碑が、静かに、圧倒的な存在感で建つ。1597年2月5日、ここで処刑された「二十六聖人」の殉教記念碑である。

彼らは、日本人信徒20人、外国人宣教師6人。豊臣秀吉の命により京都で捕らえられ、耳を切り落とされ、1ヶ月も歩いて長崎まで連行された。秀吉が長崎を処刑地に選んだのは、まだ大勢いたキリシタンへの警告ともいわれている。長崎は「小ローマ」の異名を取るほどキリスト教が栄えていた。1549年にザビエルがキリスト教を日本に伝え、翌年長崎の平戸で布教を開始。大村領主純忠(すみただ)は洗礼を受け日本初のキリシタン大名となり、1580年には長崎をイエズス会に寄進した。教会とともにセミナリヨ、コレジヨ(教育機関)が造られ、住民の多くはキリシタンとなった。1582年には少年遣欧使節がローマに赴いている。

キリシタン大名の庇護を受けたのも束の間、全国統一を遂げた秀吉にキリスト教は嫌悪される。秀吉は、1587年に「伴天連追放令」でバテレン(キリスト教宣教師)による宣教の制限を表明、1596年にサン=フェリペ号事件が起こると態度を硬化し、日本キリスト教史最初の大殉教とされる26人の磔刑を行った。徳川幕府も1614年に禁教令を出し、鎖国政策を取る。その後、キリシタンには受難が続いた。長崎のキリスト教史には伝来→繁栄→弾圧→潜伏→復活という段階があるが、繁栄の50年弱に比べ、弾圧と潜伏の期間は約250年と非常に長い。繁栄期に造った教会は弾圧期にすべて破壊された。現存する長崎の教会はみな開国後に建てられたものである。

26人は西坂で棄教を迫られたが、信仰を捨てなかった。10代前半の子どもが3人いたが、最年少12歳のルドビコ茨木(いばらぎ)は、現世よりも天国を選ぶと自ら十字架に寄り添ったという。小さなブロンズ像は大人と同じ祈りのポーズで並んでいる。絶対であるはずの「お上」ではなく、キリスト教の「神」を崇めて死をも恐れない姿は、権力者を怒らせ、キリスト教勢力に対する恐怖すら与えたのではないだろうか。以後、長崎のキリシタンは凄まじい拷問を受け、殉教にまつわる話が多数伝えられている。「かくれ」になって潜伏したキリシタンの子孫も、明治初頭まで酷い迫害と弾圧を受けることになる。

西坂の大殉教は、『日本史』の著者ルイス・フロイスなどによりヨーロッパへ伝えられ、教皇は26人を1627年に列福、1862年に列聖した。日本で西坂の処刑地が史跡になったのは戦後で、列聖から100年後の1962年にクリスチャンの彫刻家・舟越保武(ふなこしやすたけ)により美しい二十六聖人像が造られた。近くに日本二十六聖人記念館と聖フィリッポ教会も建つ。殉教の2月5日に近い日曜日に毎年ミサがあり、大勢の信者が参加する。

カトリックの巡礼者が訪れ、旅行者にも人気があるが、私がさるいた日は静かで、ルイス・フロイスの碑に赤い椿がぽつんと咲いていた。殉教の日、祈りを叫びながら海に向かって息絶えた26人の十字架とそれを見ようと押し寄せた群衆を想像する。かつてそんなことがあったとは思えぬほど青々とした空と海がどこまでも広がっており、宗教と権力、対立と暴力、自由と平穏について、さるきながら思いをめぐらせる日であった。

日本二十六聖人殉教地・西坂公園(参考)http://www.at-nagasaki.jp/junrei/113/

えふなおこ(Naoko F)/プロフィール
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。得意な分野は比較文化、比較言語、ミックスルーツ、転勤族、国際スポーツ、契約書全般。移動の多い生活をしながら、育児と仕事の両立に奮闘中。勢いで受けた長崎検定3級に合格。