第25回 もうすぐ消滅するかもしれない刺繍・デスイラード 後編

デスイラードというレース編みの手法が、他の国にもあるのかどうか知りません。少なくとも日本で見た覚えはありません。スペイン語に訳せば、それがどんな技法かおわかりいただけるでしょう。「デスイラード」とは、「糸を抜く」「糸を減らす」という意味なのです。それが何を意味するのか、ご紹介しましょう。

(1)  細かいマス目のある台紙にデザインを描き起こす。花型、星型など外枠となる形と、内側の透かし模様の形を決める。透かし模様を作るために、マス目を利用しながら抜き取る糸の数を計算しておく。

(2) 内側で糸を切っても布がほつれないようにするために、(1)で決めた外枠をしっかりと縫いながら固める。

(3) 外枠の内側に透かし模様を作るため、3本ずつ、5本ずつなど抜き取るヨコ糸とタテ糸の本数を数えながら、ハサミで切り込みを入れていく。1本くらいの間違いならなんとか修正できても、間違いが多いと、抜いたときに穴の大きさがバラバラになってしまうので、慎重にやらなくてはならない。

枠を固めてから、糸を切っていく作業を動画でご覧下さい。 (*字幕をオンにして下さい)

(4) 抜くべき糸の全てに切り込みを入れたら、糸を1本ずつ抜いていく。 すべて抜き終わると、美しい透かし編みの完成となる。

枠内の糸を切り終わった後に、糸を抜く作業を動画で ご覧下さい。(*字幕をオンにして下さい)

(3) の段階では、見ていても、どこをどう切っていて、それがどんな模様になるのか、皆目見当がつきません。(4) の段階になってようやく、「糸を抜くって、そういうことだったのか」とわかりました。タテ糸の上端を切ったら、同じ糸の下端を切り、引っ張って抜く。ヨコ糸の左端を切ったら、同じ糸の右端を切って、抜く。透かし模様は、糸の抜き加減で作られていくのです。

エミコさんと店を訪れた時の話に戻しましょう。

「デスイラードの作品には、どんなものがあるんですか? もしよろしかったら、見せていただけませんか?」

それまでは全く知らなかった刺繍の技法であるのに、「消滅するかもしれない」という言葉にいてもたってもいられなくなり、私たちはマリベルさんに懇願しました。

「いいわよ」

後ろのガラス棚から取り出してくれたのは大作でした。ダブルベッド用のカバーです。全面にデスイラード技法の刺繍が入っており、大切に作られていることが、布が発する温かいエネルギーでわかりました。

他の西洋の国々ではどうなのかよく知らないのですが、スペインにはベッドメイキングに美しいルールがあり、ベッド周りを大事にする文化があります。人の家に行くたびに、きちんと整えられているベッドに感心させられます。マリベルさんが見せてくれたベッドカバーにも、途方もないほどの労力を惜しみなく出す作り手の愛情とこの国の文化を感じ、私は心を打たれてしまいました。こんなに美しいベッドカバーに包まれて寝ることができたら、どんなに幸せでしょう。

私は子どもの頃、「布団を裏打ちしてもらったわ。綿屋さんに高級な綿を入れてもらったのよ」と喜ぶ母の姿が大好きでした。花柄の木綿の布に包まれた、ふわふわした布団は、それは気持ちの良いものでした。今は日本でもスペインでも、布団は衣類スーパーや大型スーパーで手軽に売られているわけで、そういうものを買って使用している自分ですが、私が愛しているのは、かつて母が頼んで作ってもらっていた布団であり、それが私にくれた感触です。そして、そういうものを嬉しいと思う母の心なのです。そのような居心地の良い気持ちが、マリベルさんが見せてくれたベッドカバーを見て、一瞬で蘇ったのでした。

「いくらですか?」

すぐにお金に換算してしまう自分自身に、それまで浸っていたロマンがぶち壊されてしまうわけですが、聞きたくて聞いてしまいました。

「これは売れないわ」

「ええ?」

「こんな大作は、もう作れないのよ。もう40年くらい前のものよ」

今引退している女性たちがまだ40代前後の働き盛りだった頃、主婦たちは家の軒先に小さな椅子を出して座り、ずらりと並んで、ひねもす、おしゃべりしながら布を広げて刺繍していました。オロペサや隣村ラガルテラの風物詩です。今では写真でしか見ることができない風景です。

「こっちならいいわよ」

そう勧めてくれた作品も大変美しいベッドカバーでしたが、 簡単に手が出せる金額ではありませんでした。とはいえ、制作にかかったという2ヶ月間を給料に換算すると、そのデスイラードの作り手は、搾取と呼ばざるをえないほど少ない額で卸していたことになります。

「あまり高いと売れないから、買ってもらえる額をつけるしかないのよ」

値段には布代やお店の経費も含まれているので、諸々を差し引かれた額しか手元に残りません。布も、どれでも良いというわけではなく、バルセロナの近くにある麻布の専門店から買い付けます。

デスイラードの問題は、深刻でした。

黙ってしまった私たち。

三人の間で、伝染したかのように、ため息が何度もこぼれてしまいました。

その暗い沈黙に柔らかな灯りをかざすように、マリベルさんが、デスイラードが施された小さめの布を手にとって言いました。

「お客さんに、貴族のご夫婦がいらしてね。年に何度か、このサイズのをまとめて買ってくださるの。ご主人が、おトイレの手拭きにしているんですって。濡れたものは使わないから、1日に何枚も使うそうよ。でも、この布じゃなければ嫌だっておっしゃるんですって」
まだそんな感性で生活をしている貴族がいると知り、 心の中に温かな火が灯された気持ちになりました。

秋のある晴れた日、私はマリベルさんを再訪するために、また高速を走っていました。その日は、一人でした。

「いつかデスイラードの作品を手にしたいけれど、今は心が少し混乱して決められないので、近いし、またゆっくり来ます」

前回私たちは、そう告げてマリベルさんのお店を後にしたのです。今回は実演もしてくれると言い、おかげで、冒頭でご紹介することができました。

「マリベルさん、こんにちは」

テーブルの上には、すでに懐かしく思えるおしゃれな布たちが、あの日のようにたくさん並んでいました。

「やっぱり、この小さいのも、いいですね」 と、私。

「それを買ってくれていたお客様の話。覚えている?」と、マリベルさん。

「これをタオル代わりにするという、あの貴族の方ですねー?」

「ご主人が、先日亡くなったのよ」

「まあ……」

「また一人、デスイラードを知る人が……」と、マリベルさんが、寂しげに目を落としました。

私は、ちょっと素敵なテーブルクロスを購入しました。いつの日か骨董になるかもしれないデスイラードの、私にとって初めての作品でした。来年、エミコさんがまたトレドに来たら、このクロスを敷いて、とびきり素敵なランチ・パーティーをするつもりです。マリベルさんも、呼ぼうかな!


【*追記】編集過程で編集部の凛福子さんに、イタリアにはドロンワーク、ノルウェーにはハーダンガー刺繍があると教えられました。おかげでインターネットの色々な記事にたどり着くことができ、レティセラ、プント・イン・アリアなどの技法もあること、それらは歴史も古く、アジア起源でフン族が欧州に伝えたらしいなどと知ることができました。日本にも作家さんがいらっしゃり、関連本もいろいろと発売されているそうです。凛さん、ありがとうございます。デスイラードもまた、かつてスペインに住んでいたアラブ人が伝えた伝統なのかもしれないと、いにしえに思いを馳せました。

 

完成した模様

河合妙香(かわいたえこ)/プロフィール
スペイン在住15年。ライター・フォトグラファー。大学講師。ビジネス・旅行コーディネーター。台湾・フランスを含め海外在住歴25年。日西通訳のほか、スペイン語・中国語の通訳も。最近、中国人留学生(歴史が好きな男の子二人)に日本語を教え始めた。中国の知られざる歴史や豊臣秀吉観などを詳しく教えてくれて、大変面白い。一方で、ユダヤ女性の友達と日本のユダヤ伝説について調べたり、彼女とイスラム教徒 との温かい交流を知ったり、長崎が舞台となるカトリック神父の殉教劇を見たり、スペインの新聞エル・パイスから、ラーメンについてのインタビューを受けたりと、良い人間関係を満喫中。