第10回 生死の沙汰も運しだい

泥造りの村のモスク。村では土着の仮面信仰が主流だが、少数のイスラム教徒もいた。

ここに告白する。

私は腹黒い。

本当に自分勝手で冷たい人間だ。

今回はそういう話をする。


ブルキナファソで私が住んでいた村は、病院がある一番近い街まで60km近くあった。公共交通機関はなく、バイクを所有している人も限られているので、病気になっても簡単には病院へは行けない。そのため、私は日本から大量の薬を持ち込んでいた。

コンプライアンスが厳しくなった今の時代は知らないが、当時はコレラや赤痢といった感染症の治療に使う強い薬も、事情を話せばあらかじめ多めに出してもらえた。しかし、奥地の村にたったひとりの外国人として住んだことのある人ならたいてい経験があると思うが、村の人たちはやたら薬をもらいにくる。外人なら持っていると思うからで、実際に私たちは持っているのだ。

拒否すれば人間関係が悪くなるし、気安くあげればもっと気軽により多くの人たちがやってきてしまう。とはいえ、処方箋なしに買えないような強い薬を医師でもないのに他人に渡すのも怖いし、何より数に限りがある特効薬を、いざ自分がその病気にかかったときまでとっておきたいという黒い本音が私にはあった。

そこでばら撒き用に、「正露丸」や「バファリン」といった日本の薬局で買える薬もたくさん用意しておき、求められればそちらを渡していた。ふだん呪医が処方する草や木の根などしか飲まない村の人たちにはそれでも効果絶大だったらしく、毎日のように頭痛や腹痛を訴える人が私の家にはやってきた。


村で暮らし始めて1年を過ぎた頃、遠くの村まで泊りがけの調査に出かけるため、運転手つきの車をレンタルした。数日後に家へ戻ると、隣家の少女が寝込んでいる姿がたまたま戸口から見えた。すねが溶けでもしたかのように膿みただれており、ただごとでないことはひと目でわかった。

これまでも「○○さんの子どもが病気らしい」「××さんのおばあさんがいよいよ危ないらしい」と耳にすることはあっても、自分から積極的に動いたことはなかった。なぜなら自分勝手な私は、「誰かに手を貸してしまったら、われもわれもと村人たちが押し寄せるかもしれない。全員を助けるだけのお金はないから、一緒に暮らす家族に何かあったときに助けるだけにしておこう」と決めていたからだ。

しかし、怪我人本人を自分の目で見てしまった、その子がよく話をする隣家の娘だった、しかも今日に限って街まで運べる車があった。これだけの条件が揃ってしまっていたため、いかに利己主義な私といえども見過ごせなくなり、しぶしぶ家人に声をかけ、街の病院まで運んだ。

結果、数日間入院させ、治療を受けさせ、帰宅後に服用する薬のお金もすべて私が払った。全部で8000円ほどだったと思う。子どもの母親も医者も私が払うのが当たり前といった雰囲気だったのは予想通り。下手をすれば足どころか、命まで失ったかもしれない状況で8000円は確かに安い。私も後ろめたい思いをせずにすんだ。

でも、そのとき邪悪な私は憂鬱だった。明日からたくさんの人が「うちの子も病院へ連れて行って」と来るんじゃないかって。だって私が重篤な病気や怪我に見舞われた子どもの母親なら、知らない人であってもダメ元で頼んでみるもの。それで助かるならやってみるもの。


で、その後どうなったかというと、何も変わらなかった。薬をもらいに来る人はいたが、それ以上の要求は誰からもなかった。そして、入院していた子どもが村へ帰ってきた日、お隣の奥さんがお礼にと晩ごはんを持ってきてくれた。

というか、それだけだった……

厚かましい私は、村では高価な肉入りのご馳走かなと期待したが、いつもと変わらぬオクラの料理で、助けた子どももその家族からもその後、これといった反応もなく。


どうも、隣家の親子も村人たちも、「たまたまヌサラ(村での私のあだ名)が見つけて病院へ連れて行ってもらえてラッキー」という程度の感覚のようなのだ。命にかかわるような事態においても、頑張って無理しても助けるという方向にエネルギーが向かない。運命のなすがままというか。

こういう運命への諦念に近い彼らの考え方が欧米人に侵略をやすやすと許す過去を引き起こしたような気もして、なんとも歯がゆい気持ちにもなった。

でも、

村中の人を助けるために持っているお金をすべて注ぎ込まねばならないような事態にならなくてよかったと、腹黒い私はほんとうに胸をなでおろしたのであった。

板坂 真季(いたさか まき)/プロフィール
村では「正露丸」が人気だった。彼らが呪医に処方される民間薬に匂いや形状が少し似て馴染みやすいのに加え、異国の言葉(漢字)が書かれたきれいなビンに入っていたのも効きそうだったからだろう。