第4回 歌が生まれるとき

ヌヌマの太鼓はしゃべる。しかも饒舌に語る。

15年以上前、私が数年暮らした、ブルキナファソ西部のヌヌマ民族が住む村では、太鼓が言葉を話せた。それも、人が話すのと変わらないほどのレベルで。

電気のない村の暮らしでは、太鼓は拡声器の役割も果たす。村人へのお知らせがあれば、グリオと呼ばれる村の演奏家が、太鼓を叩きながら村中を練り歩く。車も耕作機械もない辺境の村では、草が倒れても響きそうな静寂が村を包み、太鼓の軽やかなリズムは思いのほか遠くまで風に乗って届く。

テテンテェンテンテントォンタン……

「中央広場で乳幼児の予防接種を行います。料金は××CFAです」

テトタンタントタタタタァン……

「明日の朝、役人が選挙の説明に来ます。みんな広場へ集まるように」

どんな複雑な内容も、太鼓は伝えることができた。


それにしてもこの太鼓言葉。村の人たちはどうやって習得していたのか。ヒントは、子どもたちの遊びにあった。


村で人気の遊びの中に、“小枝探し”というゲームがある。

用意するのは、長さ8cmほどの小枝、目隠しの布、手の平にのる小さな一弦琴。まず、オニ役に選ばれた子どもが目隠しをしてしゃがむと、周囲を取り囲む子どもたちが、誰かひとりの服や持ち物の中に小枝を隠す。準備が整ったらオニが目隠しをはずし、小枝のありかを当てるのだ。その際、一弦琴が、「小枝は○○くんの手の中」とか「××ちゃんの服の中」というヒントを与える。

ヌヌマの一弦琴は、唇で息を吹きかけながら弦を指ではじき、音に高低やリズムを与える仕組みだ。一弦琴の演奏だけは大人が担当。太鼓ほどではないにしても、簡単な言葉を伝えられるようだった。

ただ、楽器言葉に慣れない子どもたちは、こんな短いフレーズでもあまり聴き取れない。オニは一生懸命音色を聴いては答え、間違ってはまた聴く、を繰り返す。当たれば今度は、小枝をもっていた子どもが鬼になり、遊びは続いていく。リズムと音程が何を言っているのかを聴き取る練習ができるこうした遊びを通じて、子どもたちは楽器言葉を自然に覚えていくのではないか。

ある日、この遊びに加わっていると、子どもたちが私の髪の中に小枝を隠した。当時、私は長い三つ編みを背中にたらしており、そこに外から見えないように小枝を指し込んだのだ。

一弦琴は答えとなる調べを刻んだ。

「小枝はヌサラ(村での私のあだ名。“白人”の意味)の頭の中」

しかし、長いストレートの髪に馴染みのないオニ役の子どもは、髪の中に小枝を隠せるということにどうしても思い至れず、一弦琴は何度も何度も同じフレーズを繰り返すことに。

「小枝はヌサラの頭の中」

「小枝はヌサラの頭の中」

「小枝はヌサラの頭の中」…

この夜、その子がとうとうギブアップするまで、何十回となくこのメロディは繰り返された。


その後、町に用があり、1週間ほど村をあけて戻ってくると、道端で歌を歌う子どもたちに出くわした。

「小枝はヌサラの頭の中~ 小枝はヌサラの頭の中~」。

一弦琴が奏でていたのと同じリズムとメロディに歌詞を加えている。あの日、あまりに何度も繰り返されたため、覚えてしまったのだろう。

……これってもしかして、新しい歌が生まれてる!?

このままこの歌が定着し、何年も後でわらべ歌の調査がこの村に入ったら戸惑うだろうな。「小枝が白人の頭の中にあるってどういうシチュエーション? 何かの暗喩??」と

歌詞の意味がしばしば論議の対象となる「かごめかごめ」や「ハンプティ・ダンプティ」も、始まりはこんなくだらないことだったのかもしれない。

なんてね。

板坂 真季(いたさか まき)/プロフィール
このエリアで、この話す太鼓について研究している学者がいる。川田順造さんだ。彼の著書『サバンナの博物誌』(筑摩書房)を高校時代に読んだことが、ブルキナファソへの私の強い憧憬を生んだ。世界を流転する私の人生は、川田先生のせい? それともおかげ?