第3回 子どもの名前は何のため?

はじめにお断りしておく。今回はうんこ話なし。

“家が貧乏”、“家が金持ち”。

現地の言葉でそんな意味の名前をもつ姉妹がいた。これ、金持ちの妹はいいけど、お姉ちゃんはグレないか? 一生、周囲から貧乏人呼ばわりされているようなものじゃないか。

私が西アフリカのブルキナファソで住んでいたヌヌマ民族の村では、子どもの命名は一族の長老が行っていた。命名法のパターンは3つ。

1つ目は、一家に最初に生まれた子どもと2番目の子どもの場合で、名字ごとに名前が決まっている。私が寄宿していた村長一家の場合、ひとり目が“大地”、2人目は“小大地”とつけることになっていた。

村には全部で5つの名字しかない。医療が遅れていた昔は第1子や第2子が生き残れることはまれで問題なかったが、私が住んでいた頃には同姓同名が増加。小学校では入学した順に“大地の1”、“大地の2”、“大地の3”と呼び分けていた。“大地の13”とか、私だったらかなり嫌だ。

2つめの命名法は、生まれた場所に拠るもの。“山”、“酒”、“井戸”、“兎”といった名前がこれにあたる。“山”さんの場合、母親が山で産気づいたのか、山で出産したのかが最初は私もよくわからなかったが、村で暮らすうちに気付いた。「生まれた場所」というのは母親のお腹から出た場所をいうのではなく、どうも魂が来た場所をさすらしい。

もっとも、井戸から魂が来た場合は井戸端で産気づくことが多いと言われている。“井戸”と名づけたものの、夜泣きが激しいので占い師に伺いを立てたところ、「この子の魂は井戸から来たように見えて、実は酒からだった」と判明して改名した、なんて話もよく耳にした。

3つ目。これがどうにも理解しがたいのだが、冒頭にあげたような、子どもが生まれたときの状況などを名前にするやり方だ。冒頭にご紹介した姉妹は、家が貧しい時に姉が生まれ、好転してから妹が生まれたため、あのような命名になったらしい。ところ変われば価値観も異なる。姉本人は自分の名前を恥じていないのだろうと思っていたが、名前の意味を尋ねるとかなり言い難そうにしていたのを見る限り、そうでもなさそうだ。

このパターンにはこんな例もある。

母親の不倫で生まれた女児に、“お前の本心はわかっている”ちゃん。第5夫人なのに第1夫人をたてない女性の男児は“世間を知れ”くん。結婚前に子どもができてしまったカップルの男性が彼女の実家に挨拶に来たが、父親が怖くてなかなか家に入れず、入口で首だけ突っ込んで躊躇していたという逸話で知られる夫婦の子どもは、“頭は家の中で尻は外”ちゃん。な…長い!

“世界が壊れた”という、中二病的においしい名前の男性もいた。彼が生まれた頃、中国から安い古着が大量に村に流通するようになり、伝統的な村の織物業が大打撃を受けたことでついた名前らしい。

日本では昨今、キラキラネーム論議が盛んだ。

それがどんなに常識はずれで珍妙な名前だったとしても、親としては子どもに何らかの夢を託して命名しているはず。私が今暮らすミャンマーでも、生まれた曜日によって名前の発音にある程度の制限はあるが、基本的にはポジティブな意味を持つ単語を用いるのが一般的だ。子どもの人生への希望を名前に込めているのだろう。

しかしこのヌヌマの人たちの村はどうだ。子どもが生まれたときの村の出来事や家庭の状況やただのアナウンス、場合によっては母親への叱責や皮肉がその子の名前になっている。名付けられた方としてはたまったものではないが、無文字社会のこの地では名前もまた、民族の歴史資料なのかもしれない。

ちなみに私の誕生日は8月15日。総合病院での出産だったが、医師や看護士が少ないお盆の真っ最中で、人出が足りず、父も物品を運んだりして手伝ったそうだ。母が必死にいきみ、ふとドアに目をやると、父は当時5歳だった兄まで分娩室に入れてしまっていたそうだ。

ヌヌマ方式でなら私の名前はさしづめ、父も手伝ったちゃんとか、兄も見ていたちゃん、お盆で人が足らなかったちゃん、とかになっていたのだろうか。ちょっと勘弁してほしい。

板坂 真季(いたさか まき)/プロフィール
村で暮らしていた時はそれなりに話していたはずのヌヌマ語が、もうほとんど思い出せない。現地でつけていたフィールドノートは日本なので、上で書いた名前も意味は覚えていても現地発音をほぼ忘れてる。短期間で覚えた言語は忘れるのも早いというのを実感中。