ロンドン滞在時、一度引っ越しを試みた時の話である。当時私はフラット(台所やトイレが共同のアパートのような賃貸物件)を借りて住んでいたが、訳あって引っ越すことを決めた。同じ時期に引っ越しを検討していた友人と二人、不動産屋を回ってはロンドンの各方面へ物件を見に行った。上を見ればキリがないもので、駅から遠い、スーパーがない、フラットメイト(共同部分をシェアする人たち)の第一印象があまりよくないなど、当たり前なのだが自分の許容範囲にピッタリ収まる物件はなかなか現れなかった。
そんなある日紹介された物件に私は心を動かされた。駅から徒歩7分、ロンドンのフラットにしては珍しくフローリングの床、キングサイズのベッド、大型のクローゼット三つ、TVやミニ冷蔵庫も部屋に付いている。壁が白くて明るい部屋は、これまでのどの物件よりも広い。写真と情報だけでハートを射抜かれた私は、即日友人と見に行くことにした。
そこで友人が一言、「ちょっと駅の名前怖いよね」。駅はベイカールーラインの Kilburn Park 駅である。「キルバーン? 怖い?」「だって、キルとバーンって、殺す・燃やすって聞こえるじゃん」。なるほど。キルのスペルは違うにせよ、確かに聞こえは怖いね、なんて言いながら、あまり気にも留めずキルバーンの駅に降り立った。静かな住宅街という感じで、すぐ近くに緑のオープン・スペースに囲まれた古い教会があり、リスでも見かけられそうだ。気持ちいい所だね、なんて言いながら、物件を見に行った。実際も写真で見るより素敵なフラットで、白とブルーを基調にした内装も美しい。屋根裏の部屋は中国人の女の子が、隣の部屋は女性の大家が住んでいる。女性ばかりというのも私を安心させた。「もう、ここに決めちゃおうかな」心は9割決めの姿勢である。しかし、物件を決める際には夜の周辺の雰囲気も見ておことが大切だ。後日、夜にこの辺りを歩いてから決めることにした。
と、その瞬間。車の停まる音と共に、「ヘイ、ユー!」背後で声がした。即座に振り返るとゴッツイお兄さんが車の窓から顔と腕を出し、「ユーノー、キル……」――。
思い出せば、助手席には女性が乗っていて、多分彼等は住所か道を聞こうとしたのかもしれない。しかし、恐怖の夜道で突然話しかけられ、私はパニックだった。彼が発した「Kil」という言葉を聞くや否や、「あーーー!! NO、NO―――!!」などと叫び、ダッシュして逃げちゃったのである。むしろ哀れだったのは彼等に違いない。しかしその時の私は恐怖でいっぱいだったため、彼等のことなどお構いなし。全力疾走で街灯の多いフラットのある道まで出て、ようやくホッとした。
さあ、ここへ来て困った。こんなに夜道が怖くてこの町に住めるだろうか? フラットの建物の前で悶々としていると、前方からフラットの女性大家がやって来た。「何しているの?」と聞かれ、いきさつと夜道が怖かったことを語ると、女主人は自分の来た方向を指した。「ひとつ手前の駅からなら、街灯が多いから平気よ。私はあっちの駅を使っているわ」なんと、ひとつ手前の駅へも徒歩10分足らずで大して変わりないというではないか。なーんだ、と安堵した私。その週に契約を結んで引っ越しをし、その後半年そこで生活したわけだが、あんなに気味悪がったキルバーンの駅の周辺も、住んでいたらどうってことないくらい平気になっちゃうのだから、慣れって恐ろしい。
≪河野友見/プロフィール≫
広島市出身。ネタを求めて渡り鳥のようにあちこち飛び回る傾向がある。好物は中世・文学・ビール・アート・ユニオンジャック。ロンドン五輪がいよいよ始まりますね! 追加のハードディスクまで購入して、録画態勢バッチリ! 気持ちはすでにロンドンな私、しばらくは国内にいながらにして時差ボケしそうです。