第13回 旅するバルゲーニョ〜伝統家具の地上最後の後継者 その5

「いやあ、あのねぇ……」

ゆっくり言葉を探すフリオさん。

グラナダのアルハンブラ宮殿に住んでいたモリスコの風俗。アンダルシア州政府蔵

「モリスコはもうスペインには残っていないのだ。その歴史を知っているかい? 1609年に、フェリペ3世が『モリスコ追放令』したからね」

「まあ!? でも、職人としてスペインに同化して残ったのでは?」

711年からスペインに住みはじめたイスラム教徒たち。イベリア半島に渡ったアラブ人は「モーロ人」(ムーア人)と呼ばれましたが、11世紀には「ムデハール」と名称が変わります。政治的にはカトリック勢力に駆逐されていきましたが、市民たちは表面的には同化し、共存し続け、建築、工芸品、タイルなど、職人仕事の傑作は王や諸侯、教会に愛されてきたのです。

彼らが小さなモーロ人を意味する「モリスコ」と呼ばれるようになったのは、1492年にグラナダのアルハンブラ宮殿がカトリックの手に落ちてからのこと。 呼び名の変遷は、世界が激変した時代と一致していました。まず、スペインが地方ごとの王国群からカトリック王国として統一され、欧州と南米に覇権を振るう大国に変貌。ドイツではルターの宗教改革。バチカンから離脱し、英国国教会を成立させたのはイギリス。東方からは、地中海の制海権を手中に収めたオスマン帝国が北アフリカまで迫っていました。シシリア島やナポリも領土にしていたスペインにとって、カトリックを守ることは国家を守ることにほかならず、1571年にはオスマン帝国と地中海で激突。このレパントの海戦で、スペイン・ヴェネチア連合軍が勝利を収めるのです。その流れで降った1609年の『モリスコ追放令』は、モーロ人在住900年目の出来事でした。どんなに優れた文化を残し社会に貢献しようとも、政治の強大な力とそれが生む時代の流れにはかなわないのですね。その多くが対岸のモロッコへ移りました。その数、300万人にのぼったそうです。

「いやあ、うちの家族の記録はね、遡れるのはひいおじいさんまでだ。それ以前はわからない。1836年からの記録しか残っていないんだよ」

「なんだぁ。フリオさんって、代々バルゲーニョを作る隠れモリスコの子孫だと勝手に想像していたんですけど」

「ははは! 悪かったな。いやいや、どの村にもよくいる、普通の家具職人だったんだよ」

彼の爆発するような笑い声で、私が浸っていた、哀愁を帯びたロマンチックな空想は、泡沫のように小さなしぶきを散らながらぽっと割れてしまいました。

「私の父はね、兄弟全員が職人だった。鍛冶屋、大工、彫金、家具。祖父は息子全員を職人にしたんだな。 家具を作るとき、全員が得意分野を分担して一緒に仕事をすれば、みな食い扶持に困らないという昔の知恵さ。家具のほか、教会の祭壇なども作っていた。ひいおじいさんも同じように、息子たち全員を職人にしたんだ。妻の家系も職人。私たちは文字通り職人一家なのだよ」

「モリスコでないなら、どうしてバルゲーニョを?」との疑問は頭の角に残したまま、話の腰は折らずに、わたしも続けました。

「私の父も職人だったんですよ!」
「おお、そうかい!? 何の?」

「建具です。障子や襖、お茶室の遣り戸や明り窓など、いろいろ作っていました。父は子どもの頃、戦争で苦労したんですけど……。フリオさんのご家族は、スペイン市民戦争の時、大丈夫だったんですか?」

1936年から3年間も続いた内戦の悲惨さは、スペイン全土が左派か右派に分かれたばかりではなく、家族や兄弟でも派が違えば命を奪い合うこともあったという話が残っているほどです。

「うちは、家族親族40人、全員無事だったよ。戦いが始まって間もなく、それまで住んでいた村を命がけで脱出し、安全な村まで疎開したんだ。真夜中、見張りに連れられて、トレドの山を越え、川を船で下ったそうだ。おかげで、家業も続けることができた」

「映画そのものだわ!」

「私はその村で生まれたんだ。物心ついた時から、工具を握って家具を作っていたからね、勉強なんてしたことなかったんだが、それでも伝統工芸の細工や多色彩の芸術が大好きだったから、16歳で、生まれて初めて学校に入ったんだ。美術学校にね。毎晩、仕事が終わってから教室へ行ったのさ」

稼ぎは1日8ペセタ。夜食を買うお金はありませんでした。

スパニッシュ・スタイルのべッドルームの一例
場所:ホテル・カルデナル・シスネロ(トレド)

とはいえ、6歳の頃から工具を握って家具作りを手伝っていたフリオさんですから、学校を卒業した20歳の時点で、プロ歴すでに14年です。お金などなくても大好きな芸術の勉強にたっぷり浸ったという時期を経て、職人として充実した段階に入っていました。学校で引き出されたアーティストとしての才能と、子供の頃から修行していた職人としての技術、それらを大きな舞台で試してみたい夢が膨らみ、なけなしの財産を投じて、ドイツの展覧会に自分の家具を出品したのは22歳の時。若者らしい好奇心と感動で、世界を発見し始めます。

「ドイツの工芸展に出展するために行ったベルリンは、壁がまだ工事中だった。ホテルの場所を探していたんだが、ドイツ語などわからないし、 今のように便利なGPSもない。作りかけの壁からは、あっち側へも行けたから、あっちへ行ってうろうろしていたんだよ。すると、警察に呼ばれた。パスポートを見せろという。言われる通りにしたら、『スペイン人は、こちら側に来てはいけない』と言われて、慌てて向こう側へ戻った。 捕まらなくてよかったな!」

典型的なスパニッシュ・スタイルの大邸宅。中南米では「アシエンダ」、トレドでは「シガラール」。
他に「コルティホ」、「フィンカ」など、地方によって呼び名が異なる。場所:ホテル・ブティック(トレド)

フリオさんは、その2年後にはフランスの展覧会へ出展して営業活動にも励み、世界に知り合いを増やしていきます。時代は60年代。米国の景気が最も良かった時期です。熱意が功を奏し、まずはアメリカ人バイヤーたちが大金を握って、トレドの工場(こうば)へ大挙して訪れました。フリオさんが工場で、その時はすでに家族でとはなく仲間たちと作っていたのは、螺旋を彫り込んだ仕上げの美しいテーブル、天使の彫刻がついたベッド、精巧な彫金、木枠に鋲を打ち込んだ一枚皮革の椅子。今もスパニッシュ・スタイル(※)として人気が高く、米国をはじめ世界中に愛好家がいるそのデザインは、ヨーロッパの末裔たちの血を刺激する伝統性と高い技術に加え、アメリカの市価何分の一という、目を疑うほど安い値段。バイヤーたちは狂喜しました。若い職人たちのつくる家具は、大いに売れ、商売は大繁盛。若干25歳で、フリオさんは、80人の職人を抱える大所帯の長となるのです。

次に訪れたのは、一人のプエルトリコ人でした。噂を聞きつけてフリオさんの工場にやってきたその男性との出会いが、その後の人生を大きく変えるとは、その時は本人も想像していないことなのでした。

(※)「スパニッシュ・スタイル」とは?
樫やナラなど丈夫な木材で作られ、カーブや、植物模様・天使などの彫刻、鉄を多用した柔らかいデザインに特徴がある。これらのデザインは「アシエンダ」と呼ばれる中南米の大邸宅の家具にも用いられ、地中海風なデザインと融合し、アシエンダ・スタイル、地中海風スタイルとも呼ばれている。

河合妙香(かわいたえこ)/プロフィール
外国語と海外にこだわる人生を選んで約半世紀。ぶんか社のファッション雑誌『Gina』の連載『World Girl´s Room』では、スペインのおうちを担当して3年目。スペインのガイドブックは数誌のほか、インターネットの海外総合情報サイト『トラベルコちゃん』で、海外クチコミのマドリードを担当。

盛り付けが上手ではないのであまり公表していないが、実は料理好き。ズボラだが本当は掃除好き。おしゃれも好きだし、花を育てるのも好き。そしてやっぱり書くことと読むことが好きなライター・フォトグラファー。トレド在住。