第2回 海外で不登校 そのとき親は

 以前から耳にしていた「不登校」という言葉。知識としてはあっても、まさか自分の子供がその状態になるとは思いもしなかった。
 長女が学校へ行かなくなったのは、ラオスに来て3年目の夏、一時帰国を終えてラオスに戻ってからだった...
LINEで送る

以前から耳にしていた「不登校」という言葉。知識としてはあっても、まさか自分の子供がその状態になるとは思いもしなかった。

長女が学校へ行かなくなったのは、ラオスに来て3年目の夏、一時帰国を終えてラオスに戻ってからだった。原因不明の熱が一週間続いたあと一日だけ登校し、その翌日から一か月余り欠席が続いた。朝になると熱が出たり、腹痛が起きたりするのだが、お昼すぎには元気になって食事も摂れる。まさに、典型的な不登校の症状だった。

行かない理由を聞いてみたが、「行きたくない」と言うばかり。担任に話すと、スクールカウンセラーのところへ行くように指示され、行ってみたが収穫はなかった。教務主任に相談すると、「すぐ連れてきなさい!さもなければ私が今から行きますよ! 」と言われて、そんな強引な作戦が成功するわけがないと判断し、「今、吐き気がして会えそうにないと言ってます」と、嘘でかわした。そして、この日を境に学校に助けを求めたり、理解してもらおうという努力はやめた。国が違えば、こどものしつけのスタイルが違って当たり前。自分の方針を押し付けるべきではない、と。

そして、学校へ行かないのは、悪いことではないと、思うことにした。十分に頑張ったし、家では日本の勉強をしているようだ。ラオスで進学するわけでもない。無理に登校する必要はない。実際に長女の友達でアフリカの小国に滞在し、通える学校がないので、自宅学習だけで過ごし、問題なく高校進学している子もいる。

私が学校へ行けとうるさく言わなくなってから、長女も心を開いたのか、ある日こんな提案をしてきた。
「日本に帰りたい。お父さんの任期が終わる来年の夏を待たずに、今年の終わりに帰ってくれるなら、残りの数か月は学校へ行く」と。
「どうして帰りたいの? 」と聞くと、
「日本の学校で日本人の友達と日本の勉強がしたい」
そこで急遽、母子だけ先に帰国することに決めた。

帰国後、長女になぜ学校に行かなかったのかを改めて聞いてみた。すると
「先生が嫌いだった。何を考えてるのかわからないし、すぐに私を責める。当時の友達にも二度と会いたくない。あの頃は、毎日が無駄に過ぎて、もったいないって思ってた。一時帰国の時に日本の学校の楽しさを知ってしまったから、それが忘れられなかった。親の都合で連れて行かれて、毎日辛くて、私の青春返して!って感じだよ」と冗談交じりに話してくれた。

英語に自信がないのに子供が喜ぶと思ってPTA活動に参加したり、学校の情報がいろいろ知りたくて先生と親しくなったりしたのは、長女の妬みをかうばかりで、何もかも裏目に出ることになった。「親の都合で連れて行って申し訳ない」という私の負い目を、長女は見抜いていて、わがままな態度に出たのかもしれない。「子供を指導するときは、どこに住んでいようと、その方針をつらぬくべきなのか。同じ厳しさで接するべきなのか。」そういった心の揺れが常につきまとう毎日だった。心が決まらないという不安な気持ちでいたのは、娘も同じだったのだろうと今ではわかる。

子連れ海外赴任の難しさを身に染みて感じたラオス滞在ではあったが、その時の苦労を思えば、日本の学校で直面する問題など、大したものではないと感じられる。ラオスが嫌で思い出したくもないという長女だが、様々な困難を乗り越えた自信が、今のハードな受験生生活を乗り切る力になると思えば、ラオスで得たものは大きいと気づいてくれるのではないだろうか。

村岡桂子(むらおかけいこ)/プロフィール
2007年から2010年までラオス滞在。2008年より、ウェブサイトや雑誌に寄稿。現在は山口県在住。公立学校非常勤講師、翻訳家、フリーランスライター。