第2回 地元の外国人の集まりにデビュー、さて何語で話す?

ペルヘケルホ――その扉を叩いた日を忘れない。フィンランドに暮らすこと5年目、次男の出産前に通っていたフィンランド語教室以来、10ヶ月ぶりに外国人の集まりに、しかも地元のケラヴァでデビューすることになる。実は今でもそうなの...
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ペルヘケルホ――その扉を叩いた日を忘れない。フィンランドに暮らすこと5年目、次男の出産前に通っていたフィンランド語教室以来、10ヶ月ぶりに外国人の集まりに、しかも地元のケラヴァでデビューすることになる。実は今でもそうなのだが、在住年数を重ねてもまだ頼りないフィンランド語より、夫とのコミュニケーション手段でもある英語の方が思いの丈をぶつけやすい。しかし、ケラヴァのあちこちで見かけるのは、タイやフィリピンなどの東南アジア系、もしくはイスラム系かロシア人。ヘルシンキのように、外国人と見れば英語が条件反射に出てくる環境ではない。ついに外国人同士でもフィンランド語で話す日がきたのか――あるいは最悪の場合、同胞同志が固まって英語でもフィンランド語でもない未知の国の言葉で盛り上がっている可能性もある。私はマイノリティーという立場を自覚していた。

実際に扉の向こうに居たのは――やはりイスラム系が一人、艶のある黒褐色の肌が一人、そして残りの4人が同胞同志でけたたましく盛り上がっていた。入って行けるだろうか――と尻込みしかけたところ、メリヤが全員に自己紹介するように促した。しばしの沈黙を破って、ポツリポツリと出身国と名前だけの簡単な自己紹介が始まった。それによると、イスラム系はイラク、アフリカ系はアンゴラで、残りの集団はコソボという私の地図上では認識不可能な国名を告げた。

イラク人はまだ移住して3ヶ月だそうで、消え入りそうな声でフィンランド語を絞りだす。彼女は子連れでもなく、始終同じ肘掛け椅子に姿勢良く座っているだけだった。アンゴラ人は生後5か月ぐらいの乳児を連れていて、離乳食を食べさせたり抱っこしたり、忙しそうにしていた。コソボ人たちは、個別にフィンランド語で話すとなると一気にトーンが下がった。長いのは8年、短くて4か月ぐらいフィンランドに住んでいるというが、さすがに8年選手は堂々と流暢なフィンランド語を操った。しかし一通り自己紹介が終わると、集団は再び母国語トークに返り咲く。この場に日本人がいたら、私だって日本語でしゃべり倒すだろう。そこは頭では理解できたので、コソボ集団にはわざわざ打ち解けなくてもいいやと、私は早速見切りを付けた。

ベビーブルーが似合った次男。ベビーカーをのぞきこまれて女の子と間違えられることが多かった。

次男はこの新しい環境を珍しがって、おもちゃで遊んで機嫌も良い。その隙に私は英語が話せるメリヤを相手に5年に渡る私の身の上話をこんこんと話し、無人公園ではママ友達も見つけられず、どれだけ育児に苦労してきたのかまくしたてた。メリヤは私が話していることは理解できるらしいが、しゃべるとなると単語がつまって同僚のパウラや臨時職員のベトナム人、ロアンを呼びつけては問い合わせる。そこに来てパウラは「あなたでわからないものを何で私が」とかぶりを振り、「アメリカには住んでいたけどずっと昔のことだから」とロアンも尻込みをする。

――さすが、地方。こういうシチュエーションは、ノキアで働いていた時はもちろんのこと、ヘルシンキの街中でも経験したことは無かった。気がつくと、メリヤがわからない英語はフィンランド語に置き換えられ、話に夢中な私は気にもかけていなかった。そうこうしている間にペルヘケルホの時間は終了。

というか、案内には12時までと記載してあるのに、コソボ集団を筆頭に11時半には我先に子供たちに外套を着せてみんな出ていってしまったのだ。呆気に取られていると、メリヤとパウラが温かく微笑んでこう聞いた――「明日もまた来る?」私には“Ei(いいえ)”と言う理由は見当たらなかった。ペルヘケルホは毎週月曜から木曜日までの午前は9時から12時、午後は13時から15時まで、いつでも外国人母子を歓迎していた。

靴家さちこ/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、結婚を機に2004年よりフィンランドへ移住。「marimekko(R) HAPPY 60th ANNIVERSARY!」「Love!北欧」「オルタナ」などの雑誌・ムックの他、「PUNTA」「WEBRONZA」などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。フィンランド直送のギフト店『Lahjapaja(ラヒヤパヤ)』の経営者。