第7回 ウラシマタローがニッポンへ

春に続き、再び日本に一時帰国した。
日本帰国は8年ぶり!という長男のタローもいっしょだ。前回は、ハイスクールを卒業したばかりのティーンエイジャーだった。大学に入ってからは、休みのたび学費を稼ぐためのバイトにあけくれていた...
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春に続き、再び日本に一時帰国した。

日本帰国は8年ぶり!という長男のタローもいっしょだ。前回は、ハイスクールを卒業したばかりのティーンエイジャーだった。大学に入ってからは、休みのたび学費を稼ぐためのバイトにあけくれていたので、帰国チャンスを逃していた。そんな息子は今回、滞在中に26歳の誕生日を迎えた。年齢だけ見れば立派な大人だ。大学の助手をしながらかろうじて自立しているものの、未だ、アメリカの大学院に在籍する貧乏学生のため、まだまだ“仕込み”の身でもある。

26年の彼の人生のうち、約10歳まで日本、その後4年間サモアで暮らし、アメリカで12年を過ごした。久々の日本を息子はどう感じているのか? と横目で観察しながら、夫と3人で2週間半の日本滞在を楽しんだ。

大人になっての初帰国ということで、親子で日本の居酒屋に足を運んだり、友だちに誘われ、名古屋のミュージシャンが集まるバーでのジャムセッションに参加したりと、今までにない日本での体験をした。偶然にも小学校の同窓会があり、幼馴染との再会も果たした。

毎日歩いて通った通学路を親子で歩いてみた。坂道をどんどん行き山の頂上に学校はある

途中で卒園した保育園に立ち寄る。

かつて通った小学校まで歩いてみたいというので、山の上の小学校まで約4キロの通学路を母子で歩いた。途中、卒園した保育園に立ち寄ると、当時と変わらぬ遊具をみつけて懐かしんだ。到着した小学校で、校内見学の許可をもらい、母校を一周した。昔あった木造校舎が取り壊されていたことを嘆きつつも、変わらぬ体育館や給食を食べた教室を見回した。16年前のあのころのように、ちょうど児童たちが一斉に、「手を合わせて、いたぁだきます」と声を合わせていた。

懐かしい体育館

4年生のはじめまでは、息子もここにいた。教室からこぼれる声を耳にしながら、ふと、「もし、ずっとここで暮らしていたら、タローは今ごろ、どこで何をしているだろう?」と想像してみた。長女が生まれてすぐ、市内から田舎暮らしに踏み切ったのは、「自然あふれる環境でののびのび子育て」を望んだからだ。夫は子どもたちが大きくなるにつれ、「型枠にはめるな」ということをよく言った。ところが、集団を重んじる日本の学校生活の中で、それを理想とするには、いろんな場面で葛藤を覚えた。もし、我が家の子育て目標が、規律正しくとか、協調性を身につけてほしい、などだったら日本をあとにすることもなかったかもしれない。

1997年の初夏、12年間楽しんだ日本の田舎暮らしを中断し、12歳の娘と、9歳、8歳、5歳の息子たちを連れて南太平洋の小国サモアに引越した。それから4年後アメリカに移った。理想を求めて移住を試みるなんて、親のわたしたちも若かったと思う。まったくもって型破りもいいところだ。親の勝手な理想のために異文化に放り込まれたあげく、言葉の壁を乗り越えなければならなかった我が子たちにとっては、こんな親の下に生まれたことを、何度不運と感じたことだろう。

名古屋では大須がお気に入り

滞在中、息子は「8年分を取り戻せ!」とばかりに美味しい日本を堪能した。ふだんは英語の世界で生きているものの、日本語の書物も難なく読める長男にとっては、本屋や古本屋が楽しくて、何度も足を運び、興味のある本を買いあさっていた。カラオケで98点を出し大喜びしたり、久々に会う親類や知人とも話が弾んだ。サモア時代に子どもたちにギターを教えてくれた、元ミュージシャンのイチとも会えた。ただ、半端じゃない日本の蒸し暑さには悲鳴をあげた。

国籍も日本だし、どこから見ても一見はフツーの日本人の息子だが、すでに社会人の一員としてがんばっている同級生に会ったり、日本の人々の暮らしぶりを眺めるうちに、今、「アメリカで暮らしている“日本人”としての自分」と、「日本で生きている“日本人”」との間の隔たりを少なからず実感したようだ。

「俺は日本人だけどアメリカにいるほうが向いている」ともらした。

子育てに親の理想をおしつけてきたことは、子どもからしてみれば、親のエゴだったかもしれない……と今は思うが、だからといって後悔はしていない。最終的に母として子に望むのは、自分でみつけた夢や目標に立ち向かっていく人生を歩んでいってくれればそれでいい。だからこそ、その力をつけてほしい。自分を枠にはめ「できるわけがない」と諦める生き方よりは、「したいこと」にチャレンジしていくことを選んでいってもらいたい。

幸か不幸か、親があちこち連れ回したせいか、自分を発揮できればそれで良いと思っているのか? 住む場所に大きな執着をもっている様子はない。長女は幸運にも、望んだブランドで夢だったデザイナーとして職を得ているにも関わらず、ときおり、さらなる理想を求めての移住をほのめかす。息子たちが今後、世界のどこで、どんな形で、どんな職業を選択し、どう生きていくのか? まだまだ謎ばかりのこのごろである。

椰子ノ木やほい/プロフィール
日本に戻るたび、いろんな違和感を感じる反面、ずっと日本で暮らしていたかのように数日で日本モードに切り替わる。ふだんは、左ハンドル車を右側通行で走らせているというのに、右ハンドル車を左側通行で違和感なく運転できてしまうのは体が日本での運転を覚えているからだろうか?  日本で運転経験のない息子が、突然日本のルールと交通量に立ち向かうことは自殺行為にちがいない。そう思うと、経験がいかにたいせつかということを思い知る。