第8回 アンドレーサ事件

3月。陽光がまぶしいだけでなく、徐々に温かみも増すこの季節、私はひたすら眠い。ジャリジャリにとけた雪は重く、車輪の直径が30センチもあるベビーカーを押すのはラッセル車のごとく重労働な上に、溶け始めた雪の下にたまっていた埃...
LINEで送る

3月。陽光がまぶしいだけでなく、徐々に温かみも増すこの季節、私はひたすら眠い。ジャリジャリにとけた雪は重く、車輪の直径が30センチもあるベビーカーを押すのはラッセル車のごとく重労働な上に、溶け始めた雪の下にたまっていた埃によるアレルギー反応から、くしゃみと鼻水に苛まされるからである。

そんな折に、ペルヘケルホ(ファミリーセンター)の新メンバーでブラジル人のアンドレーサは、メンバーと職員達に「春パーティー」の提案をしてきた。「パーティーって……?」と驚くコソボ人のメンバーを目の前にアンドレーサは「私がケーキを焼くわ。そうだ、あなたたち、うちに来て手伝ってくれる?」と勢いをゆるめない。フィンランド人職員のメリヤとパウラは「いいわねぇ!」と持ち前のポジティブさで彼女の提案をサポートした。

「シャジーコォー(サチコと発音できない)も来る?」とくったくのない彼女に、私は長男のプレスクールの送り迎えがあるのでと断った。正確には、当時2冊目の共著の執筆で忙しく、長男についてはプリスクールの後、普通の小学校に進学できるか否かの瀬戸際で、とてもじゃないけどパーティー企画のお手伝いなどをする余裕など無かったのだ。

日頃アンドレーサとは火花を散らしがちなシポニアの反応も芳しくは無い。「パーティー?いいじゃない、いつものクッキーとコーヒーで……」コソボでも本来なら女性がまめまめしく焼き菓子やパイを焼くものだそうだが、移民のコソボ人女性達は、古い風習に縛られず、スーパーで買ってきたお菓子でも十分という、カジュアルなフィンランド式を受け入れてきている。そんなコソボ人女性の中でもシポニアは、とりわけ前向きにフィンランド式に馴染んで行くことを目標としている人だった。

シポニアの一言で他のコソボ人達も我に返ったのか「上の子を保育園に送ってきてからだと早くても8時半からしか来られないんだけど……」「子ども達が学校から帰ってくる前に家に戻ってないと行けないし……」と現実的なところを告げはじめる。アンドレーサは少し傷ついたようだったが「それならケーキは夜のうちに私が焼いておくから、運ぶのだけでいいわ」と立ち直った。そればかりか、ケルホの帰り道に「私の国ではそうやってみんなでパーティーの準備をしたものよ」とまだ盛り上がり続けている。

当日、手伝いに駆け付けたのはミモザとハズビエだけだったらしいが、アンドレーサはおそろいのピンクの紙コップや紙皿に風船といったパーティーグッズまで買い揃え、私がケルホに着くころには、色鮮やかな本物の「春パーティー」ができあがっていた。ただでさえ、かしましいケルホにあまり来たがらない次男は、いつもよりさらににぎやかなことに驚いて、私に抱っこをせがみ、泣き出した。

私は母が日本から送ってくれた「ひなあられ」を持参しており、「日本の女の子のお祭りの食べ物よ」と言ってふるまった。日ごろから「ブラジル人といえばすぐサンバで陽気と勘違いする人が多いけど、私は違う」と頑ななアンドレーサが、やっぱり陽気な南の国の人に見えたこの日は、それだけでも私にはお祝いする価値があるように思えた。

ところが、その翌日――

いつもより遅めにケルホに着いた私は、キッチンで陽光に当たりながらうつらうつらしていた。すると私の背後でどっと笑い声が湧きあがる。一度ならず、二度も三度も。今日は職員達も取り込み中で、移民達だけで気ままに談笑していた。「シャジーコォー……」笑いまみれのアンドレーサに呼ばれて応接間に移動すると、コソボ人一同も涙をぬぐいながら笑っている。

私の姿を認めてミモザが、「クーンテレ(聞いて)、シャチコ」と言ってからアンドレーサ目がけてこう言った。「ティエーダーチコォ?」「えっ!?」私は驚愕した。それは“Tiedätkö?(知ってる?)”という意味のフィンランド語をポルトガル語なまりで言うアンドレーサの物まねだと気が付いたからだ。確かにラテン系の人らしく、彼女のフィンランド語には独特のアクセントやイントネーションがついており、時折私でも分かりにくかったり、笑いをかみ殺したりしている。

ミモザはなおも続けて「ティエーダーチコォって何、アンドレーサ?そんな言葉辞書にも載ってないわよ」と手元で辞書を開くジェスチャーも交えて言い募る。驚いたことにアンドレーサは笑っていた。私も一瞬にして吹いた。しかしそれは、面白さというよりは、もう死角からいきなり頭をぶん殴られたような衝撃から出た反応だったという方が近い。

でも、あの繊細なアンドレーサが自分のフィンランド語を笑われて本当に笑っている?心から?――彼女の表情を伺うと、目も口も笑ってはいるが、眉根が困惑のしわを寄せていた。涙は笑いから来るものなのか、傷ついて流れているのか、どちらにも見える――マズい。私はこれ以上笑えなくなった。

靴家さちこ(くつけさちこ)/プロフィール
1974年生まれ。フィンランド在住ライター/ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、フィンランド系企業を経て、結婚出産を機に2004年よりフィンランドへ移住。『Love!北欧』『FQ』』などの雑誌・ムックの他、『PUNTA』、『ジャポジェンヌ』『WEBRONZA』などのWEBサイトにも多数寄稿。共著に『ニッポンの評判』、『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』などがある。