第2回 患者さんはお客様

「それでは始めます、メスッ!」
手術室に入って来た外科医が手を差し出すと、看護師がメスを渡して手術が始まる。日本の医療ドラマで、見かける場面だ。

所変わって、カリフォルニアの病院。まず患者が手術室に入室したら、本人かど...
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「それでは始めます、メスッ!」

手術室に入って来た外科医が手を差し出すと、看護師がメスを渡して手術が始まる。日本の医療ドラマで、見かける場面だ。

所変わって、カリフォルニアの病院。まず患者が手術室に入室したら、本人かどうかを看護師が中心となってチェックする。さらに手術前、“タイムアウト”と呼ばれる確認を、スタッフ全員で行うことが義務付けられている。執刀する外科医が、患者の手術情報を見て、こんな感じでスタッフに呼びかける。

「患者は伊藤葉子さん。腰椎二番から五番の椎弓切除を行います。腰痛と右足のしびれが症状です」

すると室内にいるスタッフ全員が、「その通りです」と答え、やっと執刀が始まる。この確認作業は、医療事故を防ぐため。タイムアウトを行ったことを記録するのは、私の仕事でもある。

アメリカでは患者さんはお客様、という概念が根付いている。医療スタッフは顧客満足度を上げるため、最善を尽くさなければならない。病院の待合室にアンケート用紙とその回収箱が置かれているのは、その一例である。患者は、実際に医療スタッフの対応についてのフィードバックをする。大学付属病院で臨床検査技師として働いていた頃、私は患者から感謝状をもらった経験がある。

しかし医療スタッフにミスがあると、“インシデントリポート”と呼ばれる事故届けが出される。私は患者の保護者から文句を言われ、この事故届けに至ったこともある。

患者のプライバシーを守ることも、法律で義務付けられている。医師と話すときは個室で。カーテンだけで仕切られた部屋で、次の順番を待つ患者に話が筒抜けということはあり得ない。

私は患者に症状を尋ねるときは、患者と二人きりの時にするように努めている。しかし、失敗もしてきた。ある日のこと。手術前の準備室で患者情報を見ると、“喫煙者”とあった。うっかりと、この女性患者の父親がいる前で「喫煙して何年ほどになりますか?」と、質問してしまったのだ。

彼女はその場では、吸わないと言ってごまかした。私には、この患者がうそをついているのが分かった。父親がトイレに行くと、私に小声で何年間喫煙しているかを話してくれた。私はこの患者に自分の非をわびた。たとえ患者の親であっても、プライバシーに関することを話してはいけないからだ。

私は日本の医療機関での勤務経験はない。決して、米国の医療のほうが優れているとは思っていない。こちらの医療スタッフは、常に医療訴訟におびえている。私達モニター技師も裁判に巻き込まれ、出廷する可能性がある。自分を守るため、万が一訴訟になった場合に備えて高い保険料を払う。これが、米国の影の部分だ。

伊藤葉子(いとう・ようこ)/プロフィール
ロサンゼルス在住ライター兼翻訳者。米国登録脳神経外科術中モニタリング技師、米国登録臨床検査技師(脳波と誘発電位)。訳書に『免疫バイブル』(WAVE出版)がある。