第3回 やっと出会えた研究テーマ! 研究の成果は……。

期待を込めて初めて訪問したデンマークの印象はイマイチだった。だが、今さらデンマーク研究をやめることもできなかった。後戻りできず、かといって前のめりにもなれず、研究に積極的になれない自分がもどかしかった。そんなある日、指導...
LINEで送る

統計上は輝くデンマーク。だが内実に迫るのは容易ではない。

期待を込めて初めて訪問したデンマークの印象はイマイチだった。だが、今さらデンマーク研究をやめることもできなかった。後戻りできず、かといって前のめりにもなれず、研究に積極的になれない自分がもどかしかった。そんなある日、指導教授にもらった文献に目を通しながら「Flexicurity」の一字に目を奪われた。読んでみると、デンマークの労働市場は柔軟性(Flexibility)と安全性(Security)を兼ね備えた「フレクシキュリティ(Flexicurity)」を実現しているとのことだった。そして、それは「デンマークモデル」「デンマークの奇跡」などと呼ばれ、世界から注目を集めているとのことだった。

これはいったい何だ!? そのときのことは忘れられない。研究したいテーマに出会えた瞬間だった。これだ! 日頃から日本の労働市場に疑問をもっていた私は歓喜した。当時、私のなかで、日本の労働市場のイメージはダークだった。新卒じゃないと正社員として労働市場に参入しにくい、入社しても希望の部署で希望の仕事ができるとは限らない、仕事とプライベートを両立するのは困難、会社や上司に異論を唱えにくい、異論を唱えると異動あるいは解雇される恐れもある、失業したら路頭に迷うのではないかという不安感がある、非正規社員から正社員になるのは困難、どんな職でもすぐに転職する人は評価されない……。まともに社会に出て働いた経験もないくせに、私は日本の労働市場の暗い影を感じていた。そして、日本に生きづらさを抱えている人が多い要因の1つに、この柔軟性と安全性に欠けた労働市場があるような気がしていた。

だからこそ「フレクシキュリティ(Flexicurity=Flexibility+Security)」という言葉にビビッときた。そして、関連文献を夢中で読み漁った。それによれば、当時、デンマークでは失業率を下げることに成功していた。また、経営者が比較的簡単に被雇用者を解雇できる代わりに、失業者には手厚い経済的支援と就職支援が行われ、失業者が再就職しやすいシステムが構築されていた。「職を失ってもすぐに新しい職に就ける」と感じている被雇用者は70%以上に上り、OECD諸国のなかでダントツ1位だった。さらに、デンマーク人の約75%が数年間隔で転職することについてポジティブに捉えており、転職を奨励する雰囲気があるようだった。実際、1年間に約4分の1の被雇用者が転職するというダイナミックで流動的な労働市場が実現されていた。さらに、仕事の満足度調査においても、デンマークはEU諸国のなかで1位だった。私は文献を読みながら、このミラクルなデンマークの労働市場を支えている制度や政策について知りたくなった。そこに日本の未来のヒントがあるような気がした。

研究テーマに出会えた喜びを原点に、修士論文の骨組みを考え、資料を収集し、片っ端から英語文献を訳していった。デンマーク語文献については、デンマーク語の文法を独学で勉強しながら、辞書を頼りに少しずつ訳していった。面白かった。だが、同時に、何かが欠けていることも感じていた。文献は豊かな研究資源ではあったが、すべてを教えてくれるわけではなかった。具体的に各制度がどのように機能しているのか、デンマークの人びとが各制度をどのように利用し、感覚としてどのように受け止めているのか。人びとはどんな暮らしをして、どんなことを感じているのか。デンマーク人の根底に流れる価値観や意識とはどういうものなのか。文献を読んでいるだけでは、デンマークの”内側”がなかなか見えてこなかった。それで何人かのデンマーク人に取材もしてみたが、当時の私の力不足もあって、部分的なことは明らかになっても”内側”を十分に理解することはできなかった。それでもなんとか研究論文をまとめた。

修士課程に在籍中は、週に数日ホテルでアルバイトをするだけで、それ以外の時間はすべて研究に費やしていた。研究に集中するため、友達にもほとんど会わなかった。けれど、それだけエネルギーを費やしたのに、修士論文を提出した後、期待していたような達成感は得られなかった。自分で言うのもなんだが、机上の空論を抜けきれていないように感じられ、腑に落ちなかった。しかも、膨大なエネルギーを費やして書き上げた論文の読者は、審査員を含めて少数のみ。もちろん、その少数の先生方はきちんと読んで批評をしてくださったのだが、それでも空しかった。これだけ頑張ったのに、この達成感のなさは何だろう? 研究のために犠牲にした色んなことや人間関係のことも振り返った。そして「世界一幸せな国」を研究している私自身が幸せではないという現実に目が向いた……。私はいったい何をしているんだろう? 何を目指しているんだろう?

結局、私はデンマーク研究から身を引いた。同時に、研究者を目指すこともやめた。

悩みに悩んだ末の、大きな決断だった。

針貝有佳(はりかいゆか)/プロフィール
デンマーク・コペンハーゲン在住のライター兼トランスレーター。東京・高円寺生まれ。早稲田大学社会科学研究科で「デンマークの労働市場政策」について研究し、修士号取得。現在、デンマーク人の夫と娘と3人暮らし。現地のナマ情報・発見・感動をウェブや雑誌から発信するほか、翻訳やリサーチも手がけている。

ネット上で読める主な記事
地球の歩き方コペンハーゲン特派員ブログ
エキサイトのコネタ
SoDaTsu comデンマークの子育て事情
ラジオ番組 Eco Action World出演
ANAコペンハーゲンガイド