第2回 ポーランドからやって来た最初の友達

晴れてポーランド語を専攻する大学生となった私(と同級生の仲間たち)を待ち受けていたのは、先生方の衝撃の一言だった。
「みなさんがこれから勉強するポーランド語は、外大で学べる数多くの外国語の中でも、1位、2位を争うほど難し...
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晴れてポーランド語を専攻する大学生となった私(と同級生の仲間たち)を待ち受けていたのは、先生方の衝撃の一言だった。

「みなさんがこれから勉強するポーランド語は、外大で学べる数多くの外国語の中でも、1位、2位を争うほど難しい言語です。覚悟して臨んでください」

まだパソコンもインターネットも普及していなかった頃だったので、ポーランドとの接点といえば、大学の先生方だけ。ネイティブの先生が3人おられたものの、私にとってポーランドは未知の世界といっても過言ではなかった。そのような環境で、そんなにも難しい言語を学ぶモチベーションを保つことができるのだろうか。

不安な気持ちを抱えながら夏休みを迎えようとしていたある日、転機が訪れた。ポズナンという都市にある国立アダム・ミツキェヴィチ大学の日本学科で学ぶ学生のうち、選抜テストに受かった10人ほどのグループが、夏休みを利用して1ヶ月の日本研修旅行に訪れるという。その中の東京での3日間の滞在予定を、外大でポーランド語を学ぶ学生の家でホームステイさせて欲しいというではないか!この願ってもないチャンスに、私は早速両親の承諾を得て、先生に希望する旨を伝えた。私の自宅までは、東京の上野から電車で1時間の距離だったので、最初先生は渋っておられたが、私の熱意に負けたのか了承してくださった。

こうして我が家にホームステイしていただくことになったのは、3年生のミルカさん。「才女」という言葉がぴったりの、真面目で学業に対して真摯な姿勢を持った素敵な女性だった。

東京外大に留学してきたミルカさんと東京・上野公園で(2000年秋)

2泊3日のホームステイ期間中、東京観光はもちろん、自宅近くの名所にも案内することができた。ポーランド語を学び始めてまだ3ヶ月の私に、ミルカさんは日本語で、私の知らないポーランドのことをいろいろ話してくれた。家族のこと、生まれ育った町のこと、今通っている大学のこと。ポーランド各地の絵葉書や、ポーランドの歌の入ったカセットテープのプレゼントも嬉しかった。今まで「机上の勉強」でしかなかったポーランドという国が一気に身近に感じるようになった。彼女の日本語はそれは上手で、「ミルカさんが日本語を話すように、私もいつかポーランド語を話せるようになりたい」と思い、私の目標にもなった。

3日間という短い滞在期間ではあったものの、その後も文通という形で交流が続いた。お互いポーランド語と日本語を混ぜての手紙だった。書いたり読んだりするだけとはいえ、生きたポーランド語を使えることはこの上ない喜びだった。

ワルシャワのワジェンキ公園にある、憧れのショパン像の前で(1995年夏)

2年生になったある日、ミルカさんから夏休みにポーランドに来ないかというお誘いを受けた。ポーランドが民主化してまだ約5年という1995年のことだったので、両親は心配したが、最後にはミルカさんを信頼して行かせてもらえることになった。

初めてのポーランド。飛行機の到着する首都ワルシャワを観光し、ご実家のあるビドゴシチという町でホームステイして、ご家族と交流できれば十分だと考えていたが、ミルカさんは私のために素晴らしいプランを用意してくれていた。ポーランド最大の観光地、ワルシャワとクラクフだけでなく、彼女の大学のあるポズナンやコペルニクスの生まれたトルン、北のバルト海沿岸のグダンスク、ソポトに南の山地ザコパネまで実に様々なところに連れて行ってくれたのだ。1ヶ月の滞在中、ご実家のビドゴシチには休憩に立ち寄るといった具合だったが、ご両親にも、弟さんのレシェクとその奥様のアーニャ、妹さんのアーシャにもとても親切にしていただき、私にとっては忘れられない旅となったのだった。

お世話になったミルカさんご一家と(1995年夏)

帰国後もミルカさんとそのご家族とはお付き合いさせていただき、卒業旅行で再びポーランドを訪れたときにもお邪魔したり、外大に留学してきたミルカさんと東京で再会したりしてきた。私の実家で一緒に年越しをしたこともあった。私が、ミルカさんの母校であるポズナンの大学に留学していたときは、クリスマスをご実家で一緒に過ごさせていただいた。私たちの結婚式にも来てくれた。ポーランド人と結婚して、私に本当のポーランドの家族ができてからも、ミルカさんご一家は、私にとって大切な「ポーランドの家族」だった。いつでもどこにいても、おばあちゃんになっても、ミルカさんとは姉妹のような関係でいられると思っていた。

ところが今年の初め。ミルカさんが亡くなられたという知らせを受けた。あまりにも突然の訃報が信じられず、涙も出てこなかった。忙しさにかまけて、再会の機会を先延ばしにしていたことをこれほど悔やんだことはなかった。

ポーランド留学中に、ミルカさんのご実家でクリスマスのお祝い。折りしもミルカさんは日本留学中(2001年冬)

大学1年生のあの夏にミルカさんと知り合わなければ、ポーランドを大好きになり、ポズナンに留学し、ポズナン出身の夫と出会って、ポズナンに暮らす今の私は存在しなかったかもしれない。ミルカさんの時は止まってしまったけれど、ミルカさんが好きになってくれた日本に生まれ育ったことを誇りに思いながら、ミルカさんが教えてくれたポーランドの素晴らしさをこれからもできるだけたくさんの人に伝えていきたいと、今強く感じている。

スプリスガルト友美/プロフィール
ポーランド在住ライター。「一期一会」という言葉がある。父の好きな言葉だ。私がポーランドと20年も付き合ってこられたのは、ポーランドに関わる一つ一つの出会いをかけがえのないものだと大切にしてきたからかもしれない。これまで出会えた全ての人に感謝しつつ、この先も出会いを大事にしていかなければと思う。ブログ「poziomkaとポーランドの人々」