第5回 「タルティーン ベーカリー」の奇跡

 
 
「ブルーボトルコーヒー」や「タルティーン ベーカリー」の日本進出が相次ぎ、何かとサンフランシスコの”美味しいもの”が注目を浴びているのは嬉しいことだ。「タルティーン」の東京進出は、地元のマスコミからも注目を集め、...
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タルティーンベーカリーの外観

「ブルーボトルコーヒー」や「タルティーン ベーカリー」の日本進出が相次ぎ、何かとサンフランシスコの”美味しいもの”が注目を浴びているのは嬉しいことだ。「タルティーン」の東京進出は、地元のマスコミからも注目を集め、最近発売されたサンフラシスコの地元雑誌、「7X7」に、「タルティーン ベーカリー、世界征服の計画」の見出しが付けられていた。実はこの「タルティーン」、住宅街にある”小さなパン屋さん”で、外観からも「世界征服」するようなイメージは全く無い。この見出しからだと、経営者はさぞ野望高きビジネスマンのような印象を受けるが、実際、オーナーでベーカーのチャド・ロバートソン氏は、全く気取らない職人気質で、ビジネスよりもライフスタイルを重視する素朴な男なのだ。有名になっても毎日パンが焼き上がる夕方には、裏で従業員といっしょに汗まみれになって、オーブンからパンを取り出す姿を何度も見てきた。ニット帽に白いエプロン、無精髭が彼の職人姿。そしてエプロンを外すとサーファーの顔になる。そんな彼の自然な生き方とオーガニックなパンへのこだわりは、このベーカリーが あるミッション地区に住むヒップスター(※1)達のライフスタイルの象徴でもある。このパンをもっと世に広めたい投資者は以前からビジネスチャンスを伺っていたようだが、オープン13年目にしてついに海外進出を果たした。チャドさんの透き通るような”グリーンの瞳”は世界でのビジネス展開を見据えているのだろうか? いや、きっと彼の事だから世界の海でサーフィンをすることを考えているに違いない。

2010 年「タルティーンブレッド」が出版された直後。タルティーンベーカリーにて

先日、ある近所のレストランでチャドさんと少し話し込んだ。もちろん話題は、東京進出、代官山店のオープンだ。「日本で、もうすでに8件もインタビューを受けたよ!」彼自身はなぜそこまで自分の店が話題になっているのかわからない様子だった。「代官山なんてトレンディな場所を選んだのね!」と私がいうと、「そうなの? 知らなかった。日本のビジネスマンが全部やってくれるんだ」「日本のパンも相当レベルが高いけどチャレンジね?」「そうだね。でも僕は相変わらず同じ事をやるだけさ」と会話もこんな調子だ。チャドさんは北海道産の小麦粉に惚れ込んだ様子だった。日本の小麦の製粉技術の水準は高いと絶賛していた。小麦粉は北海道産、でもバターはヨーロッパ産を使うという話の後、話題はきまってサーフィンに。千葉にサーフィンに行った事を嬉しそうに話すチャドさんは、本当に自然体だ。私が「湘南も行った?」というと、目を輝かせて「それ、どこどこ?」とスマホにメモを取っていた。「次回日本に行った時は他の場所の波も試したい!」

光が差し込む明るい店内。でもいつも混んでいて席をとるのも至難の技

タルティーンのパン(Tartine Bread) の発祥は、サンフランシスコから60マイル北に行った美しい太平洋を望むポイントレイズという場所。この自然に恵まれたこの地方は、言わずと知れたオーガニック環境で、特にチーズ作りが盛んだ。チャドさんはここでオーガニックの小麦粉、天然酵母の独自のパンを確立していった。そこには昔ながらのウッドファイアオーブン(薪オーブン)があり、石臼で小麦粉を挽くという古代の手法で製粉し一晩寝かせてゆっくり水分を含む生地を作り、釜オーブンで 焼いていた。午前中はサーフィン、午後はパン作りという生活が好きだった。現在、その手法は近代的に変わっても発酵させる過程は同じだ。「パンの性質を決定づけるのは、 オーブンに入れるまでの生地の発酵過程なんだ」とチャドさんは言っている。彼にとってパンを焼くことは子供を育てるようなもの。じっくり、優しくケアをする――まるで彼の家族への愛情もそこに込められているようだ。そして自然と一体になれるサーフィンとのバランスが、チャドさんの生活を充実させているのだろう 。私が、「インタビューの時間を作ってほしい」彼に頼むと、「メールしてよ。明日からメキシコに行くんだ!」と相変わらずフットワークが軽い。

しっとりとサクサク感がおいしいレモンバー/とろけるようになめらかなチョコレートプリン/ボリュームたっぷりのバナナクリームタルト

チャドさんは、料理の名門校、CIA(California Institute of America)でベーキング( パン作りの手法)を習得し、そこで今の奥さん、エリザベスさんと出会う。卒業後フランスで修行を積み、米国に戻ってから、奥さんと素朴な田舎町、ポイントレイズでベーカリーを創業した。そこでの6年間は、地元でパンを売ったり、ファーマーズマーケットに卸したりする小さなビジネスだった。「タルティーン ベーカリー」がミッション地区にオープンしたのは、2002年。それまでサンフランシスコでオーガニックパンの主流だった「アクミブレッド」(Acme Bread)と差別化された食感や香りを持つ チャドさんのパンが評価され、行列ができるようになるまでに時間はかからなかった。それから13年、行列は途切れることなく、「タルティーン ベーカリー」は、ミッション地区の“ローカルグルメ”文化 をも作り出した 。

季節のフルーツたっぷりのブレッドプリン/開店当初から人気のレモンクリームタルト

それまでのミッション地区は、お隣のイタリアンレストラン、「Delfina 」と同じ並びのオーガニックストア、「Bi-Rite 」が地元の人気を集めていたが、現在のような「トレンディ」なスポットではなかった。そこに「タルティーン」が加わった事と、この街の道路改革(歩道を広くし、樹木などを植える)も同時に進み、今やこの3件の人気店が並ぶ18thストリートは、 ヒップスター達に支持するグルメでトレンティなストリートに発展したのだ。

朝の行列のほとんど目当てが人気の焼きたてクロワッサン

「タルティーン ベーカリー」の一番のウリはなんといっても焼きたてのパンだ。チャドさんの代表作、カントリーブレッドの原料は、小麦粉、全粒粉、塩、水のみ。特徴は、外は香ばしく中はしっとりの食感だ。発酵させて一晩寝かせることで、水分をたくさん含んだ生地になる。 焼きたての豊かな香りは店の外まで広がり、手作りパンの醍醐味であるムラのある焼き色と凹凸が美しく、 温かいまま持ち帰り夕食といっしょに食べることができる 。ブレッドナイフを入れると”ザクザク”と音がして、ナイフを中に入るとペちゃんこになるくらい 柔らかさで押しつぶされる。地元の人達はその焼き上がり時間を知っていて、販売開始ちょっと前から列ができる。焼きパンは同店か契約レストランでしか手に入らない為、近所の人たちはラッキーだ。

週末の朝には決まって長蛇の列ができるが、朝焼き上がるのは、奥さんのエリザベスさんが担当する、ペストリーやクロワッサン、スイーツが主だ。中でもブレッドプリンとクロワッサン、バナナクリームタルトがベストセラー。メニューはどれもオープン当初から全く変わっていない。

2015年サンフランシスコのシェフ達とのランチパーティーで。チャドさんは後列の左から3番目

「タルティーン ベーカリー」はこの夏、新たな店舗を同じミッション地区にオープンする。その規模は現在の約2倍。店内には、オーガニックなカフェも拡張される。チャドさんはこの新しいカフェと代官山店のオープンの忙しさにも圧倒されることなく、今日も地道にパン生地をチェックしていた。「温故知新」―― まさに彼が今まで培ってきた昔ながらのパン作りが現代社会で認められている。タルティーン ブレッドは、チャドさんの自然体な生き方を反映するようだ。特別なものは何もないのだけど、その素朴な美味しさが人気に火をつけ、“世界を制する”奇跡を作っているのだろう。

(※1)ヒップスター: もともと「ヒッピー」から由来する言葉だが、現在は 都会で暮らす現代感覚に敏感な若者たちを指しており、彼らは経済的に比較的安定した生活をしている。自由な発想を持ち個性的で、ファッションや食にもこだわりを持つ新世代の人達。

Tartine Bakery
600 Guerrero St
San Francisco, CA 94110
(415) 487-2600

参考文献:「7×7」February 16 2015.” Tartine’s Chad Robertson Plans to Take Over the World”
「SF Gate」 October 8, 2014  “Tartine’s Chad Robertson and his bread on the rise from Mission to Tokyo”
「Crub Street」 September 18, 2014
“Why Tartine Breadmaster Chad Robertson Is Going Global”
[Tartine Bread] Chronicle Books Llc  2010-09-29

関根絵里(せきねえり)/プロフィール
ライター/ コーディネーター
福岡県出身、関西育ち。1996年サンタバーバラに移住。1999年に大学卒業後、サンフランシスコでタウン雑誌の支局長を勤める。2004年よりフリーランスになる。現在、フード、トラベル、ライフスタイルの記事を中心に各雑誌にコラムを執筆中。サンフランシスコ在住。
2014年の主な仕事:  記事:「ELLE a Table」「PEN」 西海岸特集、「ミセス」(ワールド)「Japanese Restaurant News」「ボディープラス」コーディネート:「地球の歩き方」サンフランシスコ/シリコンバレー版、「まっぷる」西海岸版、「タビトモ」サンフランシスコ
著書:『カリフォルニア. オーガニックトリップ』(ダイヤモンド社)(2014)