第8回 患者から逃げる

南カリフォルニアにある最大規模の総合病院で、脳波検査技師として働いていたときのことだ。低所得者、アルコールや薬物中毒者、不法移民、囚人、ホームレスが、私たちの主な患者さんだった。病院には大きな精神病棟がある。職員が持つ特...
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毎日こんな格好で手術室にいます。
「ベースラインはグッドです!」なんて言いながら

南カリフォルニアにある最大規模の総合病院で、脳波検査技師として働いていたときのことだ。低所得者、アルコールや薬物中毒者、不法移民、囚人、ホームレスが、私たちの主な患者さんだった。病院には大きな精神病棟がある。職員が持つ特殊なカードを当てない限り、入り口の扉は開かない。一歩入ると警備員がいて、奇声が聞こえてくる。二人部屋の入り口には“シッター”と呼ばれる職員が座り、見張っている。患者が自分自身を傷つけたりしないよう、常に目をひからせているのだ。

19歳の統合失調症の青年を、手を縛った状態で検査したことがある。前日、彼は他の患者に殴りかかったそうだ。体臭がきつく、頭はふけだらけ。シッターが、私のために縛られている手をさらに押さえ、話しかけ続けてくれるなか、上司に言われたことを思い出した。

「危険を感じたら、検査も機械も放って逃げなさい」

殴られそうになったら逃げようと思っていたが、無事に終了した。検査結果は“異常”だった。

精神病棟にいる40代女性の検査依頼を受けたときのこと。私は検査を始める前に、患者さんにトイレに行ってくださいとお願いする。せっかくいい脳波が出ている途中で、もよおされて中断したくないからだ。

この女性はトイレの扉を全開にしたまま、用を足し始めた。患者用ガウンの隙間から、崩れたからだの線が見える。トイレからは悪臭が漂ってきた。思わず鼻をおおいながら、検査準備をすすめた。

用を終えた彼女がベッドに戻って来たので、電極の取り付けを始めた。特殊なペーストを使って、頭や顔に30個ほど装着するので、熟練の技師でも15分ほどかかる。ちょうど半分ほど終えたころ、彼女がスペイン語でタバコを吸いたいと言い始めた。

シッターによれば、次の喫煙タイムは11時だと言う。とき既に10時50分。私の検査を終えたら、タバコは吸えなくなる。11時と聞いた患者は、すでにタバコを手にしており、いらいらしている。

「タバコが吸いたい! チンガトゥマドレ(スペイン語で“ファックユアマザー”つまり、“あんたの母ちゃんとセックス”といった最悪のことを意味する)!」を連発し始めた。最初に私とは英語で話していたが、怒るとスペイン語になるのだろう。縛られていないから、殴られるかもしれない。私は言った。

「検査を拒否しますか?」

彼女は強くうなずくと、あと数個で完了だった電極を思い切り引っ張り、投げ出した。出て行った患者を、シッターが追いかけて行った。私はといえば、検査に必要な道具と機械をまとめて精神病棟を後にした。彼女の垂れ下がった胸、ぶよっとした肌に入れたタトゥーが脳裏を横切った。

同僚に話すと、この患者は病院の“常連”で、出入りを繰り返しているそうだ。夜の街で客を取る商売の女性だと言われた。数日後、脳波検査技師30年の先輩が、彼女の検査をした。落ち着かせるために、鎮静剤を使って。

患者が検査を拒否した形で終わったが、私は最初から逃げ腰だった。難しい状況におかれるとパニック状態になる私の弱気な態度は、後に手術室での仕事に多大な影響をもたらすことになる。

伊藤葉子(いとう・ようこ)/プロフィール
ロサンゼルス在住ライター兼翻訳者。米国登録脳神経外科術中モニタリング技師、米国登録臨床検査技師(脳波と誘発電位)。訳書に『免疫バイブル』(WAVE出版)がある。